蘇州の織物業界を繁栄させた女性たちの物語
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宮廷一の料理人を目指す少女達の物語。
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朱瞻埏 1417〜1439
明の洪熙帝(朱高熾)と郭貴妃の子。幼い頃から病弱で子もなく薨去した。
朱瞻墡 1406〜1478
明の洪熙帝(朱高熾)の五男。宣徳帝(朱瞻基)の同母弟。父が崩御した際は兄に代わり監国を任された。甥の英宗(朱祁鎮)とは不仲だったが、土木の変により自身が次期皇帝に推された際に固辞し、英宗の復位に尽力した為、奪門の変による英宗復位の後は皇族の重鎮として厚遇された。
胡善囲
宣徳帝(朱瞻基)の皇后・胡善祥の姉。美貌も学識もあり、永楽帝の治世にて尚宮局首席女官尚宮となった。
貴妃郭氏 1392〜1425
明の洪熙帝(朱高熾)の寵妃。建国の功臣・郭英の孫。彼女が貴妃に冊封された際、一族も恩恵を受けた。寵愛を笠に着て傲慢な態度が多かった。3人の皇子を産みながらも殉葬された理由として、張皇后の毒殺を謀った為とする説がある。
康惠荘淑麗妃 〜1424
明の永楽帝(朱棣)の側室。朝鮮王朝出身。彼女と一緒に朝鮮から送られた黄氏の行状が永楽帝の怒りを買い、連座して冷宮に入れられた。冷宮では食事を与えられず飢えに苦しんだが、同情した宦官が内緒で差し入れた食料で命をつないだ。永楽帝の崩御後は帰国を願ったが許されず、殉葬された。
孝成王(趙丹) 〜BC245
趙の第8代君主。秦との長平の戦いで藺相如らの反対を押し切り、老将廉頗に代えて名将趙奢の子・趙括を用い大敗した。秦軍に包囲された趙軍の兵士は互いの肉を食らい、生き残った者は降伏したが、生き埋めにされた。
唐の長安を舞台に、テロと戦う男の物語。
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李泌 722〜789
唐の政治家、文人。玄宗・粛宗・代宗・徳宗に仕えた。史書に詳しく、詩や文章を綴るのが得意だった。7歳で玄宗に詩才を高く評価される。皇太子・李璵の側近となるが、楊国忠の指矩で中央から遠ざけられ、名山で隠遁生活を楽しんだ。皇太子が即位すると長安へ戻り、粛宗から重用された。「山人」と称し白い服を着ていたが、粛宗は彼に金紫の官服を与え司馬に任命した。その後、李輔国から妬まれ、粛宗の許しを得て隠遁し、多くの書物を集めた。代宗が即位した際にも召されたが、元載らに疎まれ、左遷された。杭州で李泌は市民の飲料水を確保する為、西湖から水を引き、6つの井戸を掘った。これにより市民の居住範囲も広がった。784年には徳宗に召し出され、重用される。官僚の人員配置が実情に合わず、地方の行政官が不足していたり、実務を持たない役職があったのを是正していった。徳宗が太子を廃しようとした時はこれに反対し、徳宗は思いとどまった。
王韞秀 〜777
王忠嗣の娘、元載の妻。結婚当初は貧乏な生活だったが、のちに元載が出世して贅沢な生活をすると、これを諌めた。元載が誅殺された際、彼女に重い刑は下らず、宮廷での書類管理の仕事を言い渡されたが、彼女は元載の妻としての死を選び、笞刑により殺された。
元載 〜777
唐の政治家。家は貧しかったが学問を好み、道教に造詣が深かった。玄宗の時代に道挙に登第した。安史の乱の際は江南に逃れた。長安・洛陽が回復した後は財務官僚として頭角を現し、粛宗の元で宰相として重用された。元載は粛宗朝の権臣李輔国の妻の元氏の親戚で、粛宗が崩御し、代宗が李輔国に擁立されて即位するとさらに重用される。李輔国の失脚後も元載は代宗と謀って禁軍の実権を握る宦官の魚朝恩を誅殺するなど、活躍している。宰相による上奏の事前審査に反対した顔真卿や代宗の信任厚かった李泌などを左遷、元載派の人を任用したが、劉晏に塩の専売制や漕運の改革を命じたり、楊炎を自らの後継者とするなど、優れた人も重用している。その後、一族の収賄や贅沢な生活などの専横が目立ち、代宗は劉晏らに命じて元載を極刑にしている。
郭英乂 〜765
唐の軍人。節度使などを務め、長安と洛陽が奪回されら後は長安で禁兵を司った。洛陽では軍による暴力を禁止できず、大規模な略奪や暴力が行われた。長安に邸宅を建て、宰相の元載と交友を結んだ。成都では玄宗の肖像画を破壊し、着飾った女性達を驢馬に乗せて球を撃たせた。蜀の民衆の不満が高まり、人望のある崔旰に抑えさせようと試みたが、崔旰は郭英乂のいる成都に攻め込み、郭英乂の部下も崔旰についた。英乂は簡州に逃れたが、簡州刺史に殺された。
楊貴妃 719〜756
唐の玄宗の寵姫。蜀で生まれた。幼い頃に両親を失い、叔父の家で育てられた。彼女の人相を観た隠士が「将来、皇后に並ぶ富貴を得るだろう」と予言した、生まれながらに玉環を持っていた等の逸話がある。735年、寿王李瑁(玄宗と武恵妃の子)の妃となる。李瑁は母・武恵妃により皇太子に推されていたが、武恵妃が亡くなった翌年、皇太子は高力士の推す李璵に決まる。740年、玄宗に見初められる。体裁を整える為、一時的に女道士とされる。その後、玄宗の後宮に入り、皇后同然の待遇を受ける。楊貴妃は歌舞音曲の才があり、胡旋舞も得意で、いつも機転をきかせて玄宗の意に応えた。745年、貴妃に冊封される。亡き両親は高位を追贈され、叔父や従兄達も高位に就く。従兄や3人の姉達は権勢をふるった。翌年、夫婦喧嘩をして従兄の家に返されたが、玄宗の不機嫌な様子を見た高力士がとりなし、楊貴妃が宮中へ戻って詫びると玄宗はとても喜び、さらに寵愛するようになった。節度使の安禄山は楊貴妃に頼んで彼女の養子となり、751年、玄宗の前で大きなおしめに包まれて赤ん坊の真似をして笑わせた。しかし翌年、李林甫が亡くなり楊国忠が軍の大権を握って専横を行うと、楊一族と安禄山の対立は深まっていく。755年、安禄山は叛乱を起こし洛陽を陥落させる。翌年、玄宗は楊貴妃らを伴い蜀へ出奔するが、馬嵬では兵士らに求められ楊国忠らを殺害、さらに楊貴妃にも死を賜った。
李亨(唐の粛宗) 711〜762
唐の10代皇帝。玄宗の第3子。皇太子の頃は李璵、即位して李亨となる。安史の乱の際、玄宗と長安を脱出。756年、馬嵬で楊国忠が粛清された後、安禄山らに対抗して北伐を行い、李輔国の勧めで即位する。目をかけていた異母弟の永王李璘が独断で兵を動かし、その後も命に従わなかった為、皇甫侁に命じて捕えさせた。皇甫侁は独断で永王を斬殺した。安禄山が内紛で殺されると、長安と洛陽を奪還した。その後も塩の専売制などを命じて国家体制を強化しようとしたが、実権は皇后や宦官が握っており、三男が宮中の権力争いで自殺した頃から病に臥せる事が多く、父·玄宗が崩御した13日後に自身も崩御する事となる。
李輔国 704〜762
唐の宦官。元の名は静忠。高力士の下僕として宮中に入り、太子・李璵に仕える。安史の乱の際、太子と馬嵬へ逃れ、楊国忠の殺害を進言した。太子が即位すると李輔国と名を改め、司馬となり兵権を掌握した。玄宗が太上皇として長安へ戻った際は、李輔国は復位を恐れて西内太極宮に移ることを迫り、高力士らを免官した。玄宗が崩御し、粛宗が病床についた際は太子豫を即位させ、反対勢力の張皇后らを殺害する。その後、李輔国は言動に傲慢さが表れ、代宗の不興を買い刺客に殺される。
高力士 690〜762
唐の宦官。玄宗の腹心。隋末の群雄の馮盎の曾孫で、少年時代に去勢され、「力士」という名で武則天に献上される。容姿端麗で有能であった為、重用された。過失あり宮廷を追放されるが、宦官の高延福の養子として復帰し、高姓を名乗る事となる。皇子時代の李隆基と交流を深め、韋后や太平公主派の鎮圧にも協力して、玄宗即位後も内外の様々なことを任される。ほとんど家に帰らず、上奏文は玄宗に進める前に読み、些事は彼が決済した。玄宗に「高力士がいるからこそ、安心して眠れる」と言われた。李林甫や楊国忠・安禄山などは高力士との交流から抜擢されるようになった。738年、皇太子・李瑛の賜死後、李林甫は18子・李瑁を推薦したが、高力士は3子・李璵を推し、選ばれた。玄宗が天下を李林甫に託し、道教に専念しようとした際には諌めて怒りを買い、家に帰った。748年に大将軍となり、邢縡の反乱などを鎮圧。楊国忠の専横について玄宗を諌めたり、安禄山と朝廷の調停役を担ったりした。安史の乱で玄宗と長安を脱出する際、禁軍の求めにより玄宗を説得し、楊貴妃を縊死させた。李璵の即位後、上皇となった玄宗と長安に戻り、李輔国が玄宗を捕えようとした際は、李輔国を叱って危機を救ったが、陥れられて巫州に流される。恩赦で帰還する事となったが、朗州で玄宗の崩御を知り慟哭、吐血して亡くなった。高力士は富と権勢を掌中に治めた頃にも驕る事がなく、士大夫に嫌われる事もなかった。
吉温 〜755
唐の官僚。陰険で人にへつらうのが得意だった。事件があり、蕭炅を厳しく取り調べたが、李林甫に手を回した蕭炅はこれを抑える。その後、吉溫は蕭炅と親しくなり、李林甫の政敵を次々と疑獄で陥れていった。746年には皇太子派の韋堅や皇甫惟明を死に追いやる。父の友人だった史敬忠を取り調べる際には彼の顔を布で覆い、顔を見ずに自白を強要した。この後は李林甫に見切りをつけ、李林甫の腹心の罪を楊国忠に告発させたり、安禄山に朝廷の動静を伝えたりした。楊国忠は吉温を警戒し、吉温の収賄の罪を告発した。吉温は左遷され、その後、朝廷の使者に殺された。
李適之 694〜747
唐の政治家。李承乾の孫。下吏からの評判も良く、治水で功績をあげ讃えられた。酒が強く「飲中八仙」に数えられている。李林甫に「華山は金を採れる」と言われ玄宗に奏上したが、玄宗は李林甫に「華山は主上の本命なので私は言いませんでした」と言われ、李適之を冷遇するようになった。韋堅らが李林甫に陥れられた際、連座して左遷させられ、自殺した。
李隆基(唐の玄宗) 685〜762
唐の9代皇帝。祖母・武則天の治世に生まれる。幼少期は伯父・皇太子李弘の猶子だった。705年、武則天が中宗へ譲位させられ、唐が再興される。中宗の皇后・韋后は中宗を毒殺して政権掌握を図るが、隆基は大平公主と協力して韋氏一族を討った。この功により隆基の父・睿宗が再び帝位に就き、隆基は皇太子となった。隆基と大平公主の間には主導権争いが勃発し、712年、睿宗から譲位された隆基は太平公主を殺害した。治世の前半は「開元の治」と呼ばれ、武則天が見出した宰相・崇と宋璟を用いて度牒の見直し、租税制度の改革、節度使制度の導入などを行い唐王朝の絶頂期を招いた。737年に寵愛する武恵妃が薨去した後は政治への関心を失い、美女を求めた。740年に息子・寿王の妃である楊玉環を寵愛し、貴妃とした。政治は李林甫に任せるようになり、李林甫に与しない者は失脚させられた。李林甫の死後は楊国忠と安禄山が玄宗夫妻の寵愛を争い、楊国忠に讒言された安禄山は叛乱を起こした。玄宗は蜀へ逃れたが、兵士達の怨嗟は楊氏一族へ向かい、楊国忠は殺され、玄宗は楊貴妃に死を賜う事を余儀無くされる。皇太子・李璵は皇位継承を宣言し、玄宗もこれを事後承諾した。玄宗は太上皇となり長安へ戻るが軟禁状態で崩御する事となる。
李林甫 683〜753
唐の皇族で政治家。朝廷では貴族派の代表格。20歳まで洛陽で狩猟や蹴鞠に興じていたが、従叔父に才能を認められ、官職に就く。726年には科挙派である張説の弾劾に加わる。その後、玄宗の寵愛を受ける武恵妃に接触し、彼女の子・李瑁を皇太子に推す事で734年、宰相となる。張説の後継者・張九齢と敵対するが、表面上は張九齢に対し遜った態度をとった。736年に玄宗の意を汲み、洛陽から長安への遷都を実現させる。また、玄宗の武恵妃への寵愛に恨み言を言った3人の皇子の処分に関しては「主上の家事である」として暗黙の内に了承した。徒党を成した罪で張九齢の実権を奪い、「口に蜜あり腹に剣あり」と言われるやり口で、諫言する者や玄宗に気に入られそうな者を排除していった。節度使が中央で宰相となるのを防ぐ為、異民族を節度使に用いる事を奏上し、安禄山らが任に就いた。これが安史の乱の遠因と言われる。官僚の人事を握った際は年功序列で才能のある者を起用せず、玄宗が人材を集めようとした際には、試験を厳しくするように建言し、及第者が出ないようにした。また、近隣の税を上げて物資を関中に集めた。746年頃、皇太子李璵の周辺の人物を次々と陥れ、罪をかぶせられた家は数百家にものぼった。その後、楊国忠や安禄山が台頭し、配下の吉温は彼らに寝返るようになる。李林甫が朔方節度使として悪銭の使用を禁じた際、商人らが楊国忠に訴え、実現しなかった。部下の起こした事件が元で朔方節度使も辞任する事となる。楊国忠に讒言され、玄宗から冷遇されるようになった。病気で亡くなった後も誣告され、官位・身分を剥奪、子孫は流刑、党派の者は左遷され、棺桶は庶民のものに代えられた。
裴寛 681〜755
唐の政治家。裴尚書。聡い性質だったが容姿は優れなかった。賄賂は受け取らず、刺史の韋詵に気骨を買われて娘婿となる。民衆に慕われており、彼が蒲州刺史となると干ばつであった蒲州に雨が降ったと言われる。檀州の刺史が異民族を生け捕りにした際に全員を帰し、異民族にも慕われた。玄宗が裴寛を賞した為、警戒した李林甫は裴敦復に裴寛を讒言、裴敦復は玄宗に讒言を行い、裴寛は左遷させられる。裴寛は8人の兄弟達と仲が良く、また仏教に熱心で僧侶との交流も多かった。
皇甫惟明 〜747
唐の武将。730年、皇子・李璵の学友だった頃に吐蕃との和平を奏上し、成功した。742年~745年は節度使として吐蕃を破っている。長安へ戻ると李林甫の専横を知り、玄宗へ進言した為、李林甫から韋堅と皇甫惟明に謀反ありと讒言され、投獄、左遷されてその後、賜死する。
韋堅 〜746
唐の官僚。皇太子妃の兄。租税の運輸を行い、運河を造って各郡の特産品を運輸させ、玄宗に賞される。李林甫とは仲がよいと思われたが、李林甫は韋堅が重用されるのを警戒し、韋堅が皇甫惟明と夜遊びした際に謀反ありと讒言した。韋堅とその子らは死を賜り、妹は離縁された。
賀知章 659〜744
唐の詩人・書家。玄宗の元で秘書監を勤めた。晩年には官を辞して帰郷し、酒を飲んでは詩を書いて過ごした。李白とも交流があり、「飲中八仙」の筆頭に挙げられている。
平民出身で宋の皇后となった劉娥の物語。
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蘇洵 1009〜1066
北宋の文人。息子の蘇軾・蘇轍と共に三蘇と称せられる。幼い頃から書に親しんだが、その後は学問をやめて無頼の仲間とつきあう。27歳で学問を再開し、文章と書道の名人となった。都へ行き、欧陽脩に書を進呈し、韓琦の計らいで出世する。彼の文章には気骨があり、儒家の因習を顧みなかった。
章恵太后 984〜1036
北宋の3代皇帝・真宗の側室で仁宗の養母・楊氏。12歳で韓王(後の真宗)の側室となる。聡明で寛容な性格で、劉美人(後の章献皇后)に重用される。劉氏の侍女・李氏が趙禎を産んだ際、趙禎は劉氏の子とされたが、養育は楊氏が行なった。劉太后の崩御後、遺勅により楊氏は太后となる。
章穆皇后 976〜1007
北宋の3代皇帝・真宗の皇后・郭氏。倹約を重んじ、郭家の者に厳しく接した。悼献太子・趙祐の母。真宗の即位により皇后となる。趙祐が9歳で薨去すると悲嘆にくれて体を壊し、亡くなる。
丁謂 966〜1037
北宋の政治家。若い頃から文才で名が知れる。瑞祥を好んだ。王欽若が天書を偽造し皇帝に封禅を勧めた時、これに協力。王欽若の失脚後は寇準の下で働くが、1020年に劉皇后の元、曹利用らと結び、寇準を追放する。1022年に皇帝・趙恒の崩御の後は左遷され、辺境の地を転々とする。
曹利用 〜1029
北宋の大臣。澶淵の盟の際、遼との和平交渉を行う。遼へ贈る金額について、皇帝・真宗(趙恒)からは100万両でもよいと言われ、寇準からは30万を越したら首を刎ねると言われていた。真宗に金額を尋ねられ、指3本を立てると真宗は300万と思い、「多すぎる」と言ったが、しばらくして「やむを得ない」と認めた。その後、金額を知って喜んだと言う。曹利用はその後も真宗に重用されたが、晩年は傲慢な振る舞いが多く、左遷された。
趙元分 969〜1005
北宋の太宗の四男。妻の李氏は嫉妬深い性格で、よく宮女を鞭打って罰した。
章懐皇后 968〜989
北宋の第3代皇帝真宗の正室。潘美の八女もしくは孫娘。早世し、真宗の即位後に皇后を追贈された。
趙恒(宋の真宗) 968〜1022
北宋の3代皇帝。太宗の三男。文治主義を推進、軍事面では遼の聖宗と承天太后らによる南征に悩まされる。抗戦を主張する寇準の意見を容れ、親征を行う。戦況は澶州で膠着状態となり、西夏との軍事的緊張もある事から、遼へ使者を送り澶淵の盟を結ぶ。これにより宋は遼の「兄」の立場となり、遼に毎年、絹や銀を贈る朝貢貿易を行う事で平和を得る。趙恒はこの後、王欽若の讒言により寇準を罷免、泰山での封禅、宮殿造営などで国費を消耗させる。その一方、虫害や日照りに強い占城稲を普及させて江南の農業生産を飛躍的に増加させた。道教を尊崇し、道士への免税や道観の建築を行なっている。
趙元僖 966〜992
北宋の太宗の次男。兄・元佐が廃嫡された後、皇太子となるが病死する。
趙元佐 965〜1027
北宋の太宗の長男。若い頃は聡明で狩も得意だった。叔父・趙廷美が亡くなった際に発狂し、庶人として廃される。
王欽若 962〜1025
北宋の政治家。1004年、遼が南下して攻め込んできた際に金陵(南京)への遷都を提案するが、宰相の寇準が主張する親征が採用され、王欽若は讒言により寇準を失脚させる。1008年には天書とされる物を発見し、皇帝・趙恒に封禅を決意させる。1017年に宰相となり、皇太子の師にもなるが、丁謂に失脚させられる。1023年に宰相に復帰、1025年に死去。
寇準 961〜1023
北宋の大臣。剛直な性格で、よく部下たちを震え上がらせた。1004年に遼が南下して攻め込んできた際には親征を主張する。戦線は澶州で膠着し、澶淵の盟を結ぶ事で決着をみる。王欽若により、この盟が屈辱的だと讒言され、1006年に罷免。1017年には宰相に復帰するが、1020年に丁謂らの讒言で左遷される。3年後、任地で死去。
蘇義簡 958〜996
北宋の官僚。幼い頃から聡明で、太宗は進士試験に臨んだ際に彼を賞賛した。書道家としても有名。大酒飲みで太宗によく忠告されている。酒の上の失敗で弾劾され、左遷された。彼の死因も飲み過ぎとなっている。
楊延昭 958〜1014
北宋の武将。父の遺志を継ぎ遼との戦いで戦果を挙げるが、澶淵の盟で遼との戦が終わると活躍の場を失う。
趙徳昭 951〜979
宋の太祖趙匡胤の次子。叔父である2代皇帝・趙炅に警戒され、皇帝の座を狙っていると皮肉られた後、自決する。
趙廷美 947〜984
北宋の太祖・趙匡胤、太宗・趙炅らの四弟。兄である趙炅から謀反の疑いをかけられて流罪となり、流刑先で亡くなる。
趙炅(宋の太宗) 939〜997
北宋の2代皇帝で、太祖・趙匡胤の弟。幼い頃から学問を好み、将軍であった兄を助け、兄の即位に尽力した。晋王に封じられた後は、太祖が親征を行う際の留守居など重責を担う。太祖の崩御後に、太祖の息子ではなく弟の彼が即位した事については疑惑も多く、太祖の次男・趙徳昭を自殺させた事なども糾弾の種となる。中国の再統一を果たし、燕雲十六州の回復をも狙うが、遼に敗れ撤退する。内政では科挙により文官を多く採用し、文治主義に転換する。「水滸伝」の宋江は趙炅がモデルという説もある。囲碁を好んだ。日本の使者として来た僧・奝然を厚遇し、万世一系の天皇制を評価したという。
呂端 935〜1000
北宋の宰相。太宗・趙炅に抜擢された際、呂端はいい加減だと言う者がいたが、太宗は「端は、些細な事にはいい加減であるが、大事なことはおろそかにしない」と言った。
潘美 925〜991
北宋の将軍。太祖・趙匡胤と親しく、南漢を滅ぼす戦い等で活躍した。太宗の代には遼への北伐を任せられるが、ここでは戦果を挙げられず、楊業を見殺しにする等の行為で降格された。真宗の最初の正室潘氏は潘美の娘もしくは孫娘である。
趙普 922〜992
北宋の宰相で建国の元勲。太祖・趙匡胤に軍師として迎えられた。元は無学だったが、趙匡胤の勧めで論語を学ぶ。名宰相として知られ、「水滸伝」の呉用のモデルとも言われる。
黄河の治水に賭けた男たちの物語。
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愛新覚羅胤礽 1674〜1725
清の皇太子、康熙帝の第2皇子。母は索額図の姪で康熙帝の最初の皇后、難産で崩御。大叔父索額図が権勢を得ていた事もあり、2歳で皇太子となり周囲の期待の中、英才教育を受ける。非常に聡明で騎射の腕前も優れていた。康熙帝は彼を可愛がり、一緒に狩りに行ったり学者を招いて儒教経典と3ヶ国語(漢語、満州語、モンゴル語)を覚えさせたりした。康熙帝は彼にさらに期待し、難しい課題を与えたので彼は負担を感じたが、文句は言わなかった。しかし重臣らは武力に優れた第1皇子胤禔を推す者が多く、胤礽は胤禔をはじめとする他の兄弟たちと対立するようになった。1690年、ジュンガル部の偵察で出御していた康熙帝が病気になり、見舞いに訪れた胤礽が心配そうな様子をしなかったので康熙帝は怒って胤礽を北京に送り返した。1696年、ガルダン討伐中に重病になった康熙帝は胤礽に皇位を譲る意思を示したが、北京では兄弟たちにより胤礽が宮女を姦淫したという噂が広められており、その後すぐ全快した康熙帝は胤礽を疑うようになった。1703年、大叔父・索額図は胤礽に康熙帝の暗殺を教唆し、これが露見して処刑された。胤礽は自暴自棄となり、女色や遊興に溺れるようになった。1708年、康熙帝はついに廃嫡を決意し、百官の前で廃位の詔書を宣読して悲しみのあまりその場で崩れ落ちた。胤礽は咸安宮に幽閉されたが、彼の様子を見た康熙帝は精神病か悪霊を疑った。翌年、第3皇子・胤祉の上奏により第1皇子・胤禔が蒙古人ラマに命じて胤礽を呪詛していた事が判明し、康熙帝は廃太子・胤礽を哀れんで復位させた。しかしその後、胤礽が諸大臣と党派を築いていた事を知ると再び廃位した。その後も胤礽は復位を望んでさまざまな工作を行うが失敗し、関係者が処刑される結果となる。
孝昭仁皇后 〜1678
康熙帝の2番目の皇后、ニオフル氏。重臣エビルンの娘。1665年に妃に封ぜられ、1677年に皇后となるが、翌年に崩御する。
康熙帝(愛新覚羅 玄燁) 1654〜1722
清の第4代皇帝、順治帝の第3子。疱瘡にかかり城外へ出され乳母に育てられる。父は彼に関心が薄く、祖母・孝荘文皇后に厳格にしつけられる。1661年、天然痘になった順治帝から皇太子に指名され、同年、順治帝崩御に伴い8歳で即位する。即位前は北京の街角で同年代の庶民の子らと遊んでいたと言われる。重臣4人により政権運営が行われるが、オボイの専横が目立つようになり、索額図と謀ってオボイ派を一掃、親政を行う。1670年代にはジュンガル部のガルダン・ハーンと戦い制圧する。チベットの内紛で要請を受け出兵した際、第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられたが、第二次を送る際は関係者のグシ・ハン一族を北京に招き、爵位で釣って味方につけていたため、ジュンガル部を撤退させる事に成功した。1673年には三藩の乱が起きる。明の臣であった呉三桂は清に投降して南明の永暦帝を殺した功績で尚可喜・耿精忠と共に雲南・広東・福建の三藩を治め、独立小国家の体をなしていた。康熙帝はこの廃止を決め、呉三桂らは清に反旗を翻して周を建国する。鄭氏台湾の鄭経もこれに呼応。清は一時、長江以南を奪われ崩壊の危機を迎える。呉三桂らは「満州人を追い出して漢人の天下を取り戻そう」と民に訴えたが、漢人の王朝・明を滅ぼした呉三桂らは支持されなかった。1681年には周を滅ぼし乱を鎮圧、1683年に鄭氏政権からの降将施琅を登用して台湾を制圧する。同年、ピョートル1世下のロシア帝国が南下してきた際にはアムール川流域の軍事力を強化し、1689年に索額図を派遣してネルチンスク条約を締結。西洋文明に理解があり、宣教師たちにも寛容だったが、1704年にローマ教皇が中国に圧力をかけようとした際には宣教師らを追放した。1721年に台湾で反乱が起きた際も藍廷珍らを派遣し翌年、平定する。康熙帝は実質的に清を全国王朝とした皇帝と言われる。
内政では倹約に務め、使用人を1万人以上から数百人に減らし、明代の1日の宮廷費用で1年間の費用を賄った。黄河の治水のために「南巡」を熱心に行い、その費用は惜しまなかった。朱子学の書や明史の編纂にも力を入れ、イエズス会宣教師らの実測により最初の中国地図「皇輿全覧図」を作成する。
西洋文明を取り入れる一方、北方民族としての習慣も重んじ、1683年頃から毎年、夏は木蘭囲場でモンゴル王侯と狩猟を行った。弓の達人で、自ら虎や熊を倒したといわれる。
息子は35人いたが成人したのは24人で、そのうち9人が帝位をめぐって暗闘を繰り広げる事となる。
高士奇 1645〜1703
清朝の文人、政治家、康熙帝の側近。1687年、徐乾学と共に明珠、余国柱の解任を協議し成功する。
その後、彼も徐乾学に陥れられ、また許三礼から徐乾学と党派を組んで収賄したと弾劾され、辞職した。1694年には康熙帝から再び召し出され、厚遇された。
孝恵章皇后 1641〜1718
清の順治帝の皇后。モンゴル・ホルチン部の出身。順治帝は皇貴妃ドンゴ氏を寵愛し彼女を廃位しようとしたが、孝荘文皇后が彼女をかばったため免れた。康熙帝が即位すると嫡母として皇太后となる。
陳潢 1637〜1688
河道総督・靳輔の部下。幼い頃から多才で地理学に通じていた。靳輔は治水に関する事はすべて彼に助言を求めた。1688年、「開墾と称して民田を搾取した」と誣告され、捕えられた。勾留中に病死した。
于振甲(于成龍) 1638〜1700
清朝の政治家。同姓同名の名臣・于成龍より小柄なので小于成龍とも呼ばれる。1688年に納蘭明珠を弾劾し、治水に関して意見が対立していた河道総督・靳輔についても明珠一党とみなした。1692年に靳輔が亡くなると河道総督に就任するが、靳輔の治水法を踏襲しており、康熙帝からなぜ靳輔を弾劾したのかと言われた。
索額図(ソンゴトゥ) 〜1703
清朝の大臣。康熙帝は少年の頃、専横がみられた重臣・オボイを捕える際、索額図と共に謀った。その後、大臣となった索額図は納蘭明珠と覇権を争う。ロシアとの間でネルチンスク条約の締結に当たり、天主教(キリスト教)を公認させた。三藩の乱での政策や親族である胤礽皇子の立太子を支持した事が康熙帝の怒りにふれ、皇家の内紛の首謀者として無期懲役に処せられた。
納蘭明珠(ナラミンジュ) 1635〜1708
清朝の大臣。三藩の乱が平定された頃に権勢を振るう。科挙の受験生などから常習的に賄賂を受け取り、索額図と覇権を争った。1687年に彼が于成龍から弾劾された際、康熙帝が高士奇に「なぜ誰も弾劾しなかったのか」と尋ねると、「命が惜しくない者はおりません」と答えたと言われる。
靳輔 1633〜1692
清朝の政治家。45歳で安徽省巡撫から河道総督に昇進する。部下の陳潢に助言を受けながら陳と共に黄河、淮河を調査し治水を行った。黄河の堤防の決壊を防ぐダムを造り、運河周辺の農地が灌漑できるようにした。1688年には于成龍(于振甲)との意見の対立で解任された。その後、1692年に復職するがすぐ病没する。清廉な官吏でしばしば工事現場に出向き、工人や現地の民衆にも人気があった。治水に費用や時間がかかり過ぎるとの事で解任されたが、後任の河道総督も皆、靳輔と陳潢の治水方法に従っている。
徐乾学 1632〜1694
清朝の学者・政治家。1670年に進士となる。1686年には康熙帝に近侍し、著作に関する任務をほとんど任されるようになった。この頃に高士奇などの友人らと党派をつくり首魁となる。家人や問客に不正をはたらく者があり、御史の郭琇に「党派を組み賄賂を収めている」と弾劾され、郷里に戻り著述に専念する。康熙帝が再び彼を召し出そうとした際には亡くなっていた。
施琅 1621〜1696
明末清初の軍人。貿易商・鄭芝龍の部下だったが、鄭芝龍が清に投降する際それに従う。鄭芝龍の嫡子鄭成功の誘いで明に帰順するが、その後に離反したため家族を鄭成功に殺される。台湾侵攻や三藩の乱の平定で活躍する。鄭成功の孫・鄭克爽を降伏させ台湾の東寧王国を滅亡させるが、この日に鄭成功の廟で嗚咽涕泣し、鄭一族の毒殺を進言された際はこれを退けている。
孝荘文皇后 1613〜1688
清の2代皇帝ホンタイジの側妃、ボルジギト氏ブムブタイ。モンゴル・ホルチン部の首領ジャイサンの次女。13歳で叔母の夫・ホンタイジに嫁ぎ3人の公主と1人の公子を産む。ホンタイジの崩御後、彼の異母弟ドルゴンが彼女の息子・フリンを擁立した事で皇太后となる。順治帝・フリンの崩御後、第3皇子が即位すると太皇太后と呼ばれる。夫・子・孫の政治を補佐し、漢民族を礼遇しながら満州民族・モンゴルの教訓も吸収し、西洋の知識も尊重した。康熙帝のオボイ、三藩の乱平定にあたり彼女が謀をめぐらしたとも言われ、ホンタイジの崩御後にドルゴンに嫁いだとする説もある。
漢の文帝の皇后、竇氏の物語。
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衛子夫 〜BC91
前漢の武帝の皇后。武帝の姉・平陽公主の家の歌妓だったが、武帝が姉を訪問した際に関係し、入内する。当初は寵愛されなかったが、武帝が不要の宮人を解放しようとした際に出宮を願い出、それがきっかけでまた関係ができ妊娠した。その後は寵愛も深く、3人の公主と1人の公子を産み皇后となった。弟や甥も武帝に重用された。しかしやがて他の妃嬪に寵愛が移り、弟らも死去して後援する者もなくなり、巫蠱の禍で皇太子が挙兵して敗れた際は皇后を廃され、死を賜った。
陳皇后(陳阿嬌)
前漢の武帝の最初の皇后。館陶公主の娘。母・館陶公主は彼女を皇后にするために劉徹を皇太子に推した。たいへんな美女で武帝に寵愛されたが、のちに衛子夫が武帝に寵愛された際、衛子夫を呪って巫蠱を行い、廃位された。
劉徹(武帝) BC156〜BC87
前漢の7代皇帝。父・景帝の崩御により16歳で即位。当初は祖母・竇太后が実権を握ったが、太后の崩御後に親政を始める。匈奴征伐に力を入れ、前漢の最大版図を築いた。公孫弘を匈奴に、張騫を大月氏に派遣した。馬邑の土豪の策により匈奴の単于を殺そうとするが失敗、匈奴と本格的な戦争となる。後に皇后となる寵姫・衛子夫の弟・衛青はこの戦争で活躍して大将軍となり、衛青の甥、霍去病と共に名を残す。衛青・霍去病の没後には寵姫・李夫人の兄・李広利が後任となるが大敗する。この戦いで匈奴に降伏した李陵を司馬遷が弁護したが、武帝は司馬遷を宮刑にした。張騫らを西域に派遣した目的の同盟は成功しなかったが、漢に西域の知識をもたらし、西域から漢へ使者が来るようになり交易の道が開かれた。後のシルクロードである。外征により領土は拡大したが、その費用は財政を圧迫し、対策として塩・鉄の専売制、均輸法と平準法、田租と算賦、銅銭の鋳造などを行なった。五経の研究や元号の作成などに儒家官僚を用いたが、実務には酷吏と呼ばれる法家官僚を用いた。晩年は神秘思想が強くなり、方士らに不老長寿の術を献上させ、封禅を行った。巷でも巫蠱が流行し、皇太子と不仲だった酷吏の江充が太子の宮殿に呪術の人形をしのばせて誣告した。追い込まれた太子は反乱を起こし、父・武帝と戦うが敗れて縊死し、太子の母・衛皇后も死を賜う。その後、武帝は太子の冤罪を知り、江充の一族を殺して新しい宮を建て、太子の魂が帰る事を望む台を設けた。その後も新しい太子が立てられることはなく、李夫人の兄・李広利が夫人の子の立太子を望んで巫蠱を行い、李一族も殺された。武帝が病死した際は、末子の劉弗陵が即位する事となった。
劉武 〜BC144
前漢の皇族。文帝と竇皇后の末子。兄・景帝は宴席で劉武に自分が崩御したら彼に帝位を譲ると言った事があった。母に可愛がられており、領地も広く、殿中への出入りを許され、皇帝のように遇されていた。景帝が栗太子を廃位した際、竇太后は彼を後継者にと考えたが袁盎らの進言で沙汰止みとなった。その後、武帝が即位すると袁盎らが殺され、景帝が調べると黒幕は劉武であった。竇太后のとりなしで劉武の罪は問われなかったが首都への滞在は許されず、劉武は帰国後、病死した。竇太后は皇帝が劉武を殺したと言って悲しみ絶食した。館陶長公主が劉武の遺児を厚遇する策を出し、食事を再開した。
劉啓(景帝) BC188〜BC141
前漢の6代皇帝。父の文帝と並び、明君と呼ばれる。皇太子時代には、呉の世子の劉賢を些細な事での喧嘩で誤って殺し、文帝がその場を収めたが呉王の関係は冷却する。BC157年、即位した後は父の方針を受け継ぎ、財政の倹約と重農政策、減税に努めた。諸侯王への対応は父と異なり、些細な過失で封土を削った。これに反発した諸侯王は呉楚七国の乱を起こすが、周亜夫の活躍により鎮圧される。この功労者である周亜夫も後に解任し、皇帝の権力を強化した。
劉嫖(館陶公主)
前漢の文帝と竇皇后の娘、景帝の同母姉。父の即位で館陶公主となり、弟の即位で館陶長公主となる。梁王劉武が薨去した際、悲しみ絶食する母のために劉武の遺児たちを厚遇する提案を出し、母に食事を再開させた。長公主は娘の陳氏を皇后にしたいと望み、皇太子に嫁がせようと思ったが、当時の皇太子の母・栗姫と仲が悪かったので、弟の前で栗姫を罵り、太子の異母弟・劉徹を褒める事により、弟に皇太子の変更を決意させる。劉徹が即位すると大長公主となり、娘は皇后となる。竇太皇太后の崩御後は母后の資産の大部分を相続する。武帝の皇后となった娘は、武帝の寵愛を受ける衛夫人を呪詛した罪で廃位され、大長公主の私邸に移り住んだ。夫・陳午が亡くなった後、真珠を売る美少年に心惹かれ、引き取って教養や武芸を身につけさせ、その後、情夫とした。
張皇后 〜BC163
前漢の恵帝の皇后。恵帝の姉・魯元公主の娘。名は不詳だが、嫣との説あり。呂雉は張皇后を立后し、子供を産ませようとするが恵帝は皇后を召さなかった。呂雉は皇后に妊娠したと偽らせて側室の産んだ子を皇后の子として立太子し、子供の生母は殺した。恵帝の崩御後、子供は即位するが生母の死因を知り、呂雉を恨んだ。これを知った呂雉は彼を廃位して少帝弘を即位させた。呂雉の崩御後、呂氏一族や少帝弘は殺されたが、張皇后は幽閉されるに留まった。
竇皇后 〜BC135
前漢の文帝の皇后。名は不詳だが、猗房との説あり。元は呂雉の侍女で、他の4人と共に代王時代の劉恒に下賜されたが、寵愛は竇姫が独占した。劉恒が即位すると竇姫の子・劉啓が皇太子となり、やがて竇姫も皇后となった。幼い頃に弟と生き別れていたが、この頃に再会した。晩年になると失明した。BC157年、文帝が崩御すると皇太后となる。竇太后が末子の劉武を偏愛し、後継者にしようとした為、景帝は劉武を疎んじるようになった。劉武が薨去した際、竇太后は「皇帝が殺した」と言って悲しみ、絶食した。BC141年、景帝が崩御し武帝が即位すると太皇太后となり、幼い武帝に代わり政務を行った。黄老思想を好んだと言われる。
呂禄 〜BC180
前漢の外戚。呂雉の兄の子。趙王に封じられ、呂雉の病状が悪化した際に上将軍となった。娘を少帝弘の皇后とした。斉王劉襄が反乱を起こした際、酈寄に軍権を返上すれば大臣や諸侯の疑いが解けると説得され、北軍の印綬を返上した。その後、呂禄は捕えられて処刑され、少帝弘も毒殺される。
周亜夫 〜BC143
前漢の武将・政治家。漢建国の功臣の周勃の次男。匈奴からの防衛戦の際、慰問に来た文帝に対しても軍紀通りの作法で閲兵するよう要求した。文帝の側近はこれを無礼だと非難したが、文帝は賞賛した。呉楚七国の乱でも活躍し、丞相として政権の中枢を担うが、景帝とは意見の対立が多く、景帝が王氏を皇后に冊封する事に反対し、罷免される。その後、息子が購入した墓に入れる副葬品が皇帝専用の物だった事を理由に、不敬罪で絶食死させられる。
劉章 BC200〜BC177
前漢の皇族。呂雉の政権下、呂禄の娘を妻とするが、呂氏の専横を快く思っていなかった。宴会の余興で呂氏を皮肉った民謡を歌い、宴席を勝手に中座した呂一族の一人を斬り殺した。呂雉はこれを叱責せず、気骨のある人物と認めた。呂雉の崩御後は兄・劉襄に反乱を起こさせ、陳平・周勃らと長安でクーデターを起こして呂氏一門をことごとく誅殺した。ここでの功績は大きかったが、皇帝には選ばれず城陽王に封じられる。その後、若くして病没。城陽の民に信仰され、後漢まで彼を祀る祠がよく見られたという。
劉恒(文帝) BC203〜BC157
前漢5代皇帝。幼少の頃に代王に封じられ、母や叔父の後見を受けて代国を治める。呂雉から移封を打診された際は、異母弟らのように殺される事を警戒し、匈奴侵攻の防衛を理由に辞退する。呂雉の死後、陳平・周勃など建国の元勲や高祖劉邦の孫・斉王劉襄、朱虚侯劉章が呂氏を滅ぼした際に、元勲らは権力欲の強い斉王を警戒して帝位につけず、人格者と定評のある薄姫の子で権力欲も少ない劉恒を擁立した。代国の民は皇帝をも傀儡として利用する元勲らに疑念を抱き、即位に反対したので、長安からの使者は5回におよび、ようやく劉恒は皇帝となった。即位当初は元勲らが権力を持っていたが、彼らが引退すると劉恒は代王時代以来の臣下を登用、政治の主導権を握った。民を休ませ農村を活性化する政治を行い、費用のかかる工事は必要最低限にとどめた。減税を行い、肉刑を減らした。謀反を企てた諸侯王へも穏便に対処し、血縁者に跡を継がせた。この事は呉楚七国の乱の原因とも言われるが、乱を早期解決させたとも言われる。周亜夫・袁盎などの歯に衣着せぬ物言いも高く評価し、皇太子劉啓にも何かあれば頼れと遺言した。その治世は後世に讃えられる。
劉盈(恵帝) BC210or213〜BC188
前漢2代皇帝。劉邦が任侠の士であった頃に生まれた。劉邦の挙兵後は母や姉と共に沛県を守った。彭城の戦いで劉邦が敗走し馬車で逃げた際は父に、姉と共に馬車から突き落とされるが、夏侯嬰に救われ、その後、皇太子に立てられる。父に似ぬ温和な性格が不興をかい、たびたび廃嫡されそうになるが、母・呂雉や軍師・張良の支援で免れ、皇帝となる。政治の実権は呂雉が握り、呂雉は宿敵・戚夫人を惨殺したので恵帝は酒食にふけるようになり、夭折した。後世では、母の専横を止められなかった惰弱な人物とされるが、重臣らの支持も厚く、庶子らを母から守ろうとする優しさもあり、焚書を中断させている。
薄姫 〜BC155
漢の高祖劉邦の側室。文帝の母。薄姫の母は魏の王族だった。薄姫は西魏王魏豹の側室となるが、魏豹は劉邦に敗れ、薄姫は劉邦の後宮に入る。劉邦の寵愛は薄く、薄姫は機織りなどの雑用に従事していた。BC203年に劉恒を産むが、その後もあまり寵愛されなかった。劉恒が代王に封じられた際に、共に代国に赴いたので、呂后による側室や庶子への迫害を免れた。BC180年、呂氏一族が殺され劉恒が即位すると皇太后として長安へ戻る。文帝・劉恒は母・薄姫を深く敬っており、周勃を謀反の疑いで投獄した際も薄姫に諌められ、復職させた。文帝が自ら匈奴征伐に出陣すると言った際も、家臣の諫言は聞かなかったが薄姫に止められると思い留まった。皇帝自ら薄姫の食事の毒味も行ったという。薄姫は皇太后となっても権力をみだりに振るうことなく、周囲に尊敬されていた。
呂雉 BC241〜BC180
漢の高祖劉邦の皇后。沛県の有力者の娘として生まれ、劉邦を気に入った父が彼女を嫁がせる。沛では劉邦の父・劉太公の農業をよく助け、子供達を懸命に育てた。占い師に「天下を取る貴婦人の相がある」と言われた。劉邦が始皇帝を恐れ山奥に隠れた時にも呂雉はすぐ劉邦を探し当て、「あなたのいる所には運気がたちこめている」と言った。楚漢戦争が始まると劉太公や子供達と留守を守るが、彭城の戦いの際には項羽に捕えられ人質となる。この時は項羽が有利であったがその後形勢は逆転し、呂雉らは解放される。BC202年、劉邦が項羽を破って帝位につき、呂雉は皇后となる。未だ政情は不安定だった為、呂雉は韓信らの功臣を謀反の罪で処刑し、息子・劉盈の皇后には孫娘を迎えて呂氏一族の地位安定を図る。劉邦の側室・戚夫人は自分の子の即位を願い劉盈を廃嫡するよう劉邦にねだっていたので、呂雉は劉邦の崩御後に戚夫人の子・劉如意を殺害。また、戚夫人の四肢を切断して目を穿ち、聴覚と声を奪い、便所に置いて人彘と呼んだ。これを見た劉盈は酒に溺れるようになり、間もなく崩御する。葬儀の際、呂雉は激しく嘆くが、不安のあまり涙を流す事ができなかった。これを聞いた軍師・陳平は呂雉に一族を重役にする事を進言。呂雉は孫の少帝を立て、各地に配されていた劉邦の庶子を殺して呂氏一族を後任に据えた。この外戚政治は元勲らの反感を買うようになる。日食が起きた時、呂雉は「私のせいだ」と言い、蒼い犬に腋の下を引っ張られる夢を見た後、腋の病気になった。甥ら一族の行く末を案じ、元勲らに気をつけるよう重々言い聞かせながら崩御する。しかし、陳平や周勃らの元勲が呂氏一族を斬り、劉盈の異母弟・代王劉恒が皇帝となり、呂氏の時代は終る。後世、司馬遷は呂雉の残酷な所業を憎む一方、その治世で天下が安定し民の生活が豊かになった事を評価している。
明の全盛期をもたらした第三代皇帝・朱棣の物語。
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朱柏 1371〜1399
明の初代皇帝・洪武帝の十二男。湘王に封じられて荊州に赴任する。庶子の中で最も有能で軍議を好み、弓や剣の腕前も見事だった。建文帝の時代に謀反の疑いをかけられた際に自ら宮殿に火をかけ、焼死した。悪い意味の「戻」と諡されたが、朱棣が即位すると「献」と諡を改められた。
李景隆 〜1423
明の官僚、将軍。李文忠の長男。父が大将軍だった為、朱棣による靖難の変の際、建文帝軍の総司令官に任命される。軍事的才能は無く敗戦が続き、罷免される。建文帝の命を受けて朱棣との講和交渉を行うがこれも失敗し1402年に南京陥落。皇族の為、死は免れるが失脚し、死後に官位爵位を剥奪される。
朱能 1370〜1406
明の将軍。洪武帝の重臣・朱亮の息子。朱棣に仕えて靖難の変では張玉らと共に戦い、張玉が戦死して朱棣軍の士気が下がる中、漢の劉邦が項羽に負け続けたが一勝しただけで天下をとった話をして諸将を鼓舞し、南京陥落に導いた。出世しても財産を士卒に分け与え人望があった。彼がベトナムへ出陣の際に病没した際、永楽帝は慟哭した。
張武 〜1403
明の軍人。勇敢で史書に通じており、靖難の変では朱棣に従い耿炳文を破った。夾河の戦いでは先鋒となり、敗走するふりをして追手を迎撃した。朱棣が即位すると成陽侯に封じられた。
鉄鉉 1366〜1402
明の官僚・将軍。色目人。洪武帝の代から信任が厚かった。靖難の変では建文帝を支持し、李景隆を支援して兵糧の補給なども行なった。1400年に済南城で燕軍から水責めにあった際は城兵を偽降させて燕王朱棣の暗殺を謀ったが失敗。しかし済南城は陥落せず朱棣は撤退。1402年、朱棣に敗れて捕えられる。朱棣と面会した際も罵倒を続けた為、磔刑となり遺体は油で煮られる。
徐輝祖 〜1407
明の武人。明建国の元勲・徐達の長男、徐皇后の弟。1385年に父が亡くなり魏国公を継ぐ。北元の将軍アロ・テムルの反乱を鎮圧する。1399年の靖難の変では、南京に留め置いた朱棣の次男・朱高煦に逃げられるが、建文帝には信任される。1402年には斉眉山で燕軍を破る。南京陥落の際は朱棣を迎えようとせず、父の祠堂を守る。朱棣は激怒するが処刑はせず爵位を没収して幽閉した。
徐皇后 1362〜1407
明の永楽帝の皇后。明建国の元勲・徐達の長女。幼い頃から読書を好み、「学者」と呼ばれた。朱元璋はその噂を聞いて徐達に頼み、四男・朱棣の正妻に迎えた。夫婦仲は良く7人の子を産み、馬皇后にも寵愛された。靖難の変で李景隆が北平に攻めて来た際は、兵士の妻を集め、鎧を着て奮戦する。靖難の変終結後は弟・徐輝祖の助命を夫に嘆願して許される。皇后になっても一族を重用するような事はせず、文化事業を熱心に行なった。彼女が亡くなった際、永楽帝は深く悲しみ、チベットから僧侶を招いて盛大な葬儀を行なった。
朱棡 1358〜1398
明の初代皇帝・洪武帝の三男。晋王に封じられ太原に赴任する。智勇兼備の名士だったが、性格は傲慢。父の命令や法も平気で無視し、讒言されて南京に召喚される。朱標のとりなしで許され、以後は行動を改める。北元との戦いでは朱棣に劣らぬ戦果を挙げる。
朱樉 1356〜1395
明の初代皇帝・洪武帝の次男。秦王に封ぜられ西安に赴任する。宗室を管理する宗人府の長となるが過失が多く都へ呼び戻されるが、朱標のとりなしで罪を免れ西安へ帰還。洮州への遠征では勝利するが、同年に逝去。毒殺説もある。正妻は王保保(ココ・テムル)の妹。朱樉の死後に殉葬された。
朱標 1355〜1392
明の初代皇帝・洪武帝の長男。洪武帝即位後に皇太子となるが、温厚な性格で父の功臣粛清を諌めた為、父からは先行きを心配される。38歳で急死。彼の早逝により洪武帝は深く悲しみ、さらに粛清を行なった。洪武帝の崩御後は朱標の次男・朱允炆が即位する。
李文忠 1339〜1384
明の将軍。朱元璋の姉の子。若い頃から武勲を立て、曹国公に封じられる。しかし朱元璋を諌めて不興を買い、その後46歳で急死する。毒殺されたと言われる。
耿炳文 1334〜1403
明の将軍。皇帝・朱元璋とは若い頃からの友人で共に郭子興の軍に加わった。明建国の元勲の一人。朱元璋の功臣粛清にあう事もなく、長男には郡主が降嫁する。建文帝の時代には引退していたが、靖難の変が起こった際に朱棣軍征討の大将軍に任命される。先鋒部隊が壊滅するも徹底抗戦を続け、朱棣軍は撤退。建文帝は緒戦の敗退に怒り耿炳文を解任して李景隆を後任とする。この人事交代を知った朱棣軍は勝ったも同然と喜んだという。耿炳文は靖難の変が終わった際は罪に問われなかったが、翌年に一族もろとも処刑された。
藍玉 〜1393
明の将軍。徐達の漠北遠征に従軍した際、北元の皇帝トグス・テムルの軍を破り沢山の捕虜を得て凱旋する。藍玉がトグス・テムルの妃と姦通した噂が流れ、妃が自殺した。洪武帝(太祖・朱元璋)は激怒し、藍玉を梁国公に封じる事をやめた。その後も藍玉は軍功を上げるが、それをたのんだ傲慢な振舞いが多く、錦衣衛指揮の蔣瓛から謀反の意ありとされ、誅殺される。連座した者は15,000人から30,000人に及び、藍玉の獄と呼ばれた。
徐達 1332〜1385
明の将軍。明建国の元勲の一人で徐皇后の父。朱元璋と同郷で古くからの親友。紅巾軍でも朱元璋の側近として活躍し、明建国後は華北を元朝から奪還すべく北伐を行い、元の皇帝・トゴン・テムルを北に追いやって大都を占領した。この功績で右丞相、魏公となる。軍内でも人望が高かったが、皇帝となって疑心暗鬼となった朱元璋からは疎まれるようになる。背中の腫れ物で病床にいた徐達に朱元璋から蒸したガチョウが贈られ、当時ガチョウは腫れ物に厳禁とされていたので徐達は泣きながらガチョウを食べて数日後に死んだと言われる。
馬皇后 1332〜1382
明の初代皇帝・朱元璋の皇后。朱元璋が紅巾軍の郭子興の元にいた時、郭子興は朱元璋を気に入り、養女の馬氏を妻として与えた。馬氏は慎み深く質素で、1368年に朱元璋の即位に伴い皇后に立てられた後も贅沢をせず、周囲から人望があった。建文帝の父・朱標や永楽帝・朱棣の養母。家臣の粛清に走る朱元璋を時には支え、時には諌めた。朱元璋も皇后の言葉は無視できず、過ちを認めた。馬皇后は病になった際、自分の死で医者が罰せられるのを恐れ、医者も薬も遠ざけた。皇后が崩御すると朱元璋は悲嘆のあまり、しばらく立ち上がることもできずその間、朝議は側近が処理した。皇后の一周忌を長官が朱元璋に提案した際、朱元璋は祭祀を行う事で人民に負担をかければ皇后の思いに反すると言い許可しなかった。宮中では一周忌の代わりに皇后を称える歌を臣下たちが歌った。
朱亮祖 〜1380
元末明初の軍人。元の義兵元帥だった。朱元璋に捕えられた際に勇敢さを買われ、登用されるが数ヶ月後に離反して元に復帰。徐達らに包囲され、再び捕えられる。この時も朱元璋に許され、彼の元で軍功を重ねる。勇敢でよく戦ったが、学問を知らず、不法のことが多かった。知県に不法の件を奏聞された際、知県を誣告し処刑させた。これを知った朱元璋に召し出され、鞭打たれて死んだ。
胡惟庸 〜1380
明の政治家。李善長に推挙され紅巾軍時代から朱元璋に仕える。左丞相まで上り詰めるが、自身に反対する勢力を弾圧するなど専横を極め、日本や北元などの外国と内通して謀反をたくらんだという罪状で処刑され、胡惟庸派の重臣たちも殺される。この謀反の証拠は少なく、近年では粛清の口実であったとも考えられている。
李善長 1314〜1390
明の政治家。若い頃から法家思想に通じ、紅巾軍が安徽に入った際に朱元璋に目通りした。この時に、漢の高祖劉邦を手本として天下を平定する事を朱元璋に勧め、その場で参謀として採用された。武将間の意見の調停や有能な人材の抜擢を行い建国に尽力し、左丞相、韓国公となるが、姻戚関係の胡惟庸が誅殺されると連座して失脚、その後、自身も親族を殺され自殺させられる。
王保保(ココ・テムル) 〜1375
北元の将軍。伯父チャガン・テムルの養子となり、伯父が戦死すると後継者としてボロト・テムル将軍と対峙。皇太子・アユルシリダラを助けてボロト・テムルを滅ぼし左丞相、河南王の爵位を授けられる。その後、元軍の総司令官となるが明の軍勢の前に敗れて河南・太原を失う。アユルシリダラの即位後は明の追撃からの防衛戦にあたり、1372年には徐達率いる大軍を僅かな手勢で破り数万人を殺す。山西まで勢力を盛り返すが、1375年に病死する。
劉基 1311〜1375
元末明初の軍人・政治家・詩人・軍師。明建国の元勲の一人。元末の科挙に合格し進士となるが、上司と衝突し故郷に隠棲。呉国公となった朱元璋に招聘され軍師となる。朱元璋には「我が子房(張良)」と呼ばれ信任される。明の建国後は御史中丞となるが、李善長・胡惟庸などから讒言され、退官して故郷に帰る。彼に対する讒言は朱元璋も取り合わなかったが、劉基は南京で病にかかり亡くなる。劉基の死は胡惟庸に毒殺されたとの嫌疑が強く、胡惟庸の獄の原因となる。後世で三国時代の諸葛亮と並び称され、劉伯温や劉青田などの名で小説や戯曲によく登場している。
朱元璋 1328〜1398
明の初代皇帝。朱家の8番目の子供として朱重八と名付けられる。朱家は生活苦から転居する事が多く、流民のような貧農だった。彼は牧童として奉公に出された。空腹に耐えかねて牧童仲間と一緒に地主の牛を食べた時は一人で責任をとって滅多打ちにされ、さらに仲間の信望を集めた。1344年の干魃、蝗害、疫病で父母と長兄を喪い、寺の小僧となる。寺にも飢饉は押し寄せ、乞食同然の托鉢の旅に出る事となる。3年にわたる苦しい旅で多くの知識や経験を得る。1351年の紅巾の乱では寺を焼かれた後、紅巾の一派である郭子興の配下となる。紅巾軍の中で頭角を現していき、郭子興の養女を妻に迎える。この頃に名を元璋と改め、僧侶時代に知り合った徐達や謀臣・李善長などの優秀な配下を得る。郭子興の没後に独立し、南京(当時は集慶路)を攻略し呉国公を名乗る。江南の覇権を陳友諒や張士誠と争い、撃破。紅巾軍の総帥とされていた韓林児を救出。張士誠の支配する蘇州を陥落させる際に韓林児に迎えの船を出すが、わざと転覆させて殺し、その後は紅巾軍が信奉する白蓮教を邪教、紅巾軍を賊と呼ぶ。呉王を名乗り、1367年を呉元年とする。同年、徐達と常遇春を北伐に送り元のトゴン・テムルを敗走させる。翌年、皇帝に即位して国号を明、元号を洪武とする。建国直後は中書省に左右丞相を置いていたが、専横を恐れて六部も軍も皇帝直属の中央集権政治へ移行する。農業に力を入れ流民を故郷へ戻し、空いている土地には土地の足りない地域の農民を移住させ、空き地を開拓した者に所有権を認め、耕作地面積は国初の5倍になった。商業では銅銭を鋳造するが、これは失敗する。北元へは藍玉を送りトグス・テムルを破る。倭寇に頭を悩ませ足利幕府に使者を送るが取り締まれず。海外貿易を禁止するが、実際には密貿易が行われていた。また彼は、皇太子・朱標や皇太孫・朱允炆が儒教的教育を受け執政者としての厳しさに欠ける事を心配し、家臣に対し大規模な粛清を行う。1376年の空印事件では地方官僚と地主の癒着を防ぐために、慣例となっていた文書偽造を摘発して数千人の官吏を処刑・左遷した。1380年の胡惟庸の獄では左丞相・胡惟庸と側近・陳寧を謀反の疑いで逮捕し即刻、処刑。1382年に馬皇后が病で崩御した後はさらに苛烈になり、1385年には戸部尚書の郭桓を横領の罪で死刑にし、文字の獄と呼ばれる弾圧で、自分の過去を思わせる文字(「僧」など)を使っただけの知識人を処刑した。徐達も朱元璋から贈られたガチョウを食べて死んだと言われる。李善長も自殺に追い込まれ、1393年には藍玉も謀反の罪で一族ともども誅殺される。こうして策をつくし、1398年に孫の朱允炆を後継者として崩御するが、四男の朱棣が挙兵した際に朝廷には二流の将軍しか残っていなかったため、朱允炆は朱棣に敗れる事となる。
周瑩(呉周氏) 1868〜1908
清朝末期の女性実業家。16歳で呉聘に嫁ぐが、呉聘は10日後に病死する。1900年に西太后と光緒帝が陝西省へ逃亡した際、費用を負担して封号を与えられた。
天下人でありながら何かと不自由な生活を送るが、自分の境遇を嘆くのみでは終わらず、なすべき事に向き合い続けた皇帝の物語。
荘孝帝姫 1038〜1070
北宋の仁宗と苗氏の長女。仁宗は不遇だった実母のために実母の甥である李瑋にこの公主を降嫁させる。李瑋は画の才能があったが容貌は醜く、貧民の出身で朴訥な性格だった。公主は李瑋を夫とみなさず、美少年の内臣の梁懐吉を寵愛した。1060年、李瑋の母・楊氏が公主と梁懐吉の酌交する様子を覗いた。公主は楊氏を殴り倒し、真夜中に皇宮の門を開かせ参内し、父帝に告発した。司馬光らが公主の下人たちの過ちと訴え、下人たちは追放され梁懐吉は園陵の奉仕をさせられた。公主は自殺をほのめかし梁懐吉の召還を要求、仁宗はやむなく梁懐吉らを召還。苗氏は李瑋の毒殺を図るが曹皇后に制止される。1062年、福康公主から沂国公主に降格され、李瑋と離婚。1070年、病没。
宣仁皇后(高滔滔) 1032〜1093
北宋の英宗の皇后。曹皇后の姉の娘。夫婦仲がよく神宗などを産んだ。孫の哲宗が10歳で即位した際には垂簾聴政を行なったが、旧法の回復を主張し哲宗と意見が合わなかった。
趙宗実(英宗) 1032〜1067
北宋の第5代皇帝。仁宗の崩御にあたり嗣子が無かったため、仁宗の従兄の子・宗実が即位した。財政を再建するための改革を試みたが反対勢力が強く、彼自身も病弱だったため、在位4年で崩御した。
温成皇后 1024〜1054
北宋の仁宗の寵妃・張氏。美しく魅力的だった。8歳で父が亡くなり伯父に養育を拒まれ、母に売られて歌舞女となり、その後、後宮に入って寵愛を受けた。女子を3人産んだが、みな夭折した。皇后と同じ扱いを受け、死後に皇后を追贈された。
司馬光 1019〜1086
北宋の儒学者、歴史家、政治家。祖先は司馬懿の弟・司馬孚と言われている。「資治通鑑」の編者。王安石の新法を支持していたが、後に反対派となる。この事で朝廷から遠ざけられるが、神宗が崩御し幼い哲宗が即位すると、摂政宣仁太后高氏の命により宰相として復帰する。新法の廃止に全力を注ぐが、在任8ヶ月で病死する。
昭節貴妃 1017〜1086
北宋の仁宗の貴妃。仁宗の乳母・許氏の次女。趙昕と福康公主の母。
慈聖光献曹皇后 1016〜1079
北宋の仁宗の二人目の皇后。李植という男性と結婚したが、花婿が逃げて仏門に入ったため家へ戻り、その後に選抜され後宮に入った。禁苑に畑を作り、養蚕を好んだ。皇后の侍女の一人が侍衛と婚前交渉した際は、仁宗は許そうとしたが皇后は厳罰を嘆願した。宮中の衛兵が乱を起こした際は、直ちに扉を閉じて軍隊を派遣させ、放火される事を防ぐため水を撒かせた。また侍臣らの髪を切って論功行賞の際の目印とした。仁宗の崩御後は皇太后として英宗を補佐し、英宗が病気になると朝廷で政治を司った。神宗にも太皇太后として重んじられた。王安石の改革には性急すぎると反対していた。
張茂則 1015〜1094
北宋の宦官。仁宗、神宗に厚く信任され朝廷でも活躍する。上元節の夜に宮中で火事がおこり、茂則は指揮をとって鎮火に成功する。仁宗が病気となり「皇后と茂則が謀略」との妄言を発した時は自殺を図るが、宰相の文彦博に止められる。王安石が馬に乗って宮中へ入ろうとした際は「王莽になりたいのか」と言って止める。生活も質素で、神宗が食券を下賜しようとしたが受け取らなかった。
郭皇后(仁宗の廃后) 1012〜1035
親政前の仁宗の後宮に入り、劉太后に推挙され皇后となるが、寵愛されず。劉太后の権力を笠に着て、仁宗の行動を監視し他の宮女を寵愛するのを阻もうとした。劉太后の崩御後、仁宗の寵妃である尚美人の失言に怒り、平手打ちをしようとするが、間に入った仁宗の首に傷を負わせ、その後廃位されて道観に入る。数年後に仁宗は郭氏を呼び戻そうとするが、皇后として戻るのでなければ戻らないと言われ、諦める。その後、病になり嘉慶院で治療を受けるが急死。毒を盛られたという説もある。
趙禎(仁宗) 1010〜1063
北宋の第4代皇帝。父の崩御に伴い12歳で即位。劉太后が垂簾聴政を行うが、23歳の時に太后が病没し親政を開始。士大夫と呼ばれる科挙合格者出身の優れた人材を登用した。首都・開封では自由に市を開く事ができるようになり、文化・経済も発展した。治世は宋の皇帝で最も長く、慈悲深い皇帝だったと言われる。酒や肉を好み、健康状態は脳卒中などの生活習慣病がみられた。
狄青 1008〜1057
北宋の武将。異民族が侵入しやすい土地の貧しい家に生まれ、騎射などの武術に励んだ。西夏との戦いで前線で活躍し、枢密副史や正史に任命されるなど異例の昇進を遂げるが、朝廷から疑われ、その後枢密史を免職されて朝廷の監視を受け、翌年に没する。庶民からの人気が高く、小説の主人公にもされている。「春秋左氏伝」を愛読するなど兵法・歴史にも通じていた。一兵卒に彫られる刺青を彫られており、出世した後に仁宗に刺青を消すよう勧められたが、下級兵士の励みになるから消さないと答えた。狄青に阿ろうとする人が、狄青が唐の宰相・狄仁傑の子孫であるとする家系図を持ってきた際は、そんなはずはないとはねつけたという。
韓琦 1008〜1075
北宋の政治家・詩人。科挙に次席合格し進士となる。西夏攻撃の際は范仲淹の策を無視して惨敗し、その後は范仲淹と協力して戦う。枢密副使に就任後は范仲淹・富弼などが推進する慶暦の新政に関わる。
欧陽脩 1007〜1072
北宋の政治家・詩人・歴史学者。独学で進士に及第。范仲淹が呂夷簡と対立した際、范仲淹を弁護し左遷される。その後中央に戻り諌官となる。王安石の新法を支持していたが、実際に施行されると反対している。彼の著作は気どらないユーモアのある文で知られる。「日本刀歌」では、徐福が日本に残した、中国では焚書坑儒で失われた書について記している。
富弼 1004〜1083
北宋の政治家。范仲淹に推挙される。契丹から領土割譲を求められた際の交渉に成功する。仁宗に信任され名臣と呼ばれるが、神宗の代では王安石と意見が合わず退職を求め、政務から離れる。
包拯 999〜1062
北宋の政治家。包青天とも呼ばれる清廉で厳格な人物で、宮中の貴族や宦官ですら恐れずに贈収賄を摘発し、閻魔に例えられた。生前から庶民に人気があったが、没後はさらに崇拝され、数々の伝説が生まれて小説や演劇の題材となった。
晏殊 991〜1055
北宋の詞人。14歳で進士試験を受け、翌年から秘書省に任じられる。その後仁宗に仕え、枢密副使などを勤めるが、劉太后が天子衮冕を服して太廟を拝むことに反対した事や李宸妃の墓誌銘に一人の公主だけを産んだと記した事などで降格される。晏殊の門下には多くの優れた人材がおり、王安石、范仲淹、欧陽修などが活躍した。
范仲淹 989〜1052
北宋の政治家・文人。晏殊に薦められて秘閣校理となる。仁宗の親政にあたり、中央で採用される。郭皇后の廃后をめぐり呂夷簡と対立し、左遷される。その後、陝西を西夏の侵攻から守った功績により欧陽脩の推薦で枢密副使・参知政事となる。彼の作った「岳陽樓記」は「古文真宝」に収められ、日本にも伝えられて明治天皇や伊藤博文も愛読した。
李宸妃 987〜1032
北宋の第4代皇帝・仁宗の実母。尼僧であったが、後宮に入り劉氏の侍女となる。3代皇帝真宗の側室となり仁宗を産むが、仁宗は劉氏の子とされる。真宗の崩御後は園陵の奉仕にあたる。
呂夷簡 979〜1044
北宋の宰相。仁宗が郭皇后を廃す事に賛同し、范仲淹や欧陽脩らと対立する。仁宗の信任が厚く、実務派として知られる。
章献明粛皇后(仁宗の嫡母・劉氏) 968〜1033
北宋の第3代皇帝真宗の2人目の皇后。蜀の職人の龔美と結婚し、一緒に京師に入る。襄王(後の真宗)が彼女に一目惚れし、側室にするが、乳母の密告により追い出される。真宗の即位後、また後宮に入る。侍女の李氏が産んだ趙禎を我が子として育てる。真宗の崩御後は垂簾聴政を行い、漢の呂后や唐の武則天と並び称された。
袁世凱 1859〜1916
初代中華民国大総統。名家に生まれ科挙を官僚を志し科挙を受けるが合格せず。軍人として李鴻章の下、朝鮮を属国化する。1894年、圧政に喘ぐ朝鮮民衆が甲午農民戦争を起こし、援軍を出した清と対抗し派兵した日本の間に日清戦争が起きる。戦争に敗れ李鴻章は失脚するが袁世凱は陸軍の改革を行い大きな成果を挙げる。1898年の戊戌の変法の際には当初、改革派を支持するが、形勢が思わしくないとみて西太后の側近の栄禄に密告、西太后の信頼を得る。義和団の乱では反乱をすばやく鎮圧する。1901年に李鴻章から北洋通商大臣兼直隷総督を引き継ぐ。日露戦争では諜報や馬賊隊編成などでひそかに日本に協力する。1908年に光緒帝が崩御、西太后も逝去して宣統帝の時代となると、摂政の醇親王載灃に憎まれていた為、職を失い失意の日を送る。1911年、辛亥革命が勃発すると内閣総理大臣・湖広総督に任命され反乱軍の鎮圧を命じられる。袁世凱は部下を鎮圧に向かわせながら改革派と密約を交わし、1912年に宣統帝を退位させて中華民国臨時政府の臨時大総統に就任する。最高権力者の権限を制限する考えを持つ宋教仁を警戒し、1913年に暗殺。1915年に日本から対華21カ条要求がされ、これに対抗し懲弁国賊条例により外国人への差別的な扱いを法令化する。同年、自ら皇帝となり帝政を復活させるが国内・国外から批判を受け、翌年しぶしぶ退位。失意のうちに病死する。
宗の時代、北方の遊牧民国家・遼の睿智蕭皇后の物語。
清朝末期、実在の商人・周瑩をモデルに二つの殺人事件の謎を軸とした物語。
葛藤しながら成長していく始皇帝・嬴政とそれを支えていく大人たちの物語。
隋の初代皇后・独孤伽羅の物語
辛亥革命の時代。清代に栄えた運送・警備・保険を兼ねた仕事の話。
主人公は乾隆帝の孝儀純皇后。
主人公は始皇帝の高祖母・宣太后。
主人公は乾隆帝の清高宗継皇后となる青桜。
三国志最後の勝者、司馬懿の生涯。
兵法の祖と呼ばれる孫武の物語。
明の第5代皇帝・宣徳帝の皇后・孫氏の物語。
史書では趙姫 と呼ばれる女性の物語。
雑劇「趙氏孤児」として親しまれてきた物語。
隋の興亡。文帝・楊堅の下で晋王・楊広(後の煬帝)や唐国公・李淵らが陳を滅ぼし
隋の時代が始まる。
「合従連衡」で知られる張儀・蘇秦の師と呼ばれる人物の物語。
舞台は清朝・雍正帝の後宮。主人公の甄嬛は派閥争いに巻き込まれ、のちに自ら後宮の権力を握っていく。
中国史上空前絶後の女帝の物語
耶律隆緖(耶律文殊奴、聖宗) 972〜1031
遼の6代皇帝。12歳で即位、国号を大契丹とする。1009年に母が薨去、30代で親政開始。女真族や西域諸国を服従させ、宋との戦いでは毎年、宗から贈り物を受ける関係となった。高麗とは、宋との断交と契丹の年号を使用する約束をした。代償として江東6州を割譲する事とはなった。聖宗は中央集権化を推進し、遼の全盛期を招いた。
睿智蕭皇后 953〜1009
遼の景宗の皇后。蕭思温の娘。幼い頃から聡明で父もこの娘が家を成すと評した。景宗が即位すると貴妃となり、ほどなく皇后となる。景宗の崩御後は皇太后として摂政にあたる。耶律斜軫と韓徳譲を信任して内政を委ね、南方の軍事は耶律休哥に任せた。北宋に対する南征の軍を起こした際は三軍を指揮した。
耶律明扆(景宗) 948〜982
遼の5代皇帝。世宗の次男。穆宗が暗殺された際に重臣たちに擁立された。北宋に対抗するために、北漢と同盟を結んだ。
韓徳譲(耶律隆運) 941〜1011
遼の功臣。漢人で祖父の代から皇族に仕える。父は韓匡嗣。979年、南京(現北京)を宋の包囲から防御。景宗の崩御後は睿智蕭太后と共に聖宗擁立に尽力。その後の対宋戦でも活躍、太后から耶律姓を賜わり権勢をふるう。
耶律磨魯古
遼の軍人。耶律虎古の子。986年、宋が攻めてきた際には先鋒をつとめ、流れ矢を手に受けながら、矢を抜いてさらに進軍した。988年、契丹が宋を攻めた際にも先鋒をつとめた。
耶律虎古
遼の政治家。989年、宋から帰国した際に、宋が北漢を滅ぼそうとしていると景宗に報告するが、韓匡嗣が反対したため戦争の準備はしなかった。しかし翌年、宋は北漢を攻撃し、景宗は虎古を涿州刺史に任じた。その後、皇太后の垂簾聴政が始まり、上京へ参内した際、韓徳譲と対立して怒りをかい、護衛に殺された。
蕭撻凜 〜1004
遼の軍人。986年に耶律斜軫の下で宋軍を撃破、993年に高麗を、翌年に西夏を討つ。1002年に宋軍を撃破するが、1004年の宋との戦いで弩の伏兵に射られて戦死する。
耶律斜軫 〜999
遼の軍人・政治家、耶律休哥と並ぶ名将。妻は睿智蕭皇后の姪。蕭思温の推薦で景宗に重んじられた。高梁河の戦いで宋軍を撃破。睿智太后が宋から燕雲十六州を救援するため親征した際は山西路兵馬都統を任される。
耶律休哥 〜998
遼の将軍。穆宗、景宗、聖宗に仕えた。高梁河の戦い、瓦橋関の戦い、岐溝関の戦い、君子館の戦いなどの宋との戦いで勇名をはせた。知略に優れており宋では恐れられたが、無罪の人を殺すことはなく、また戦禍で疲弊した民を案じて税を軽くし、孤児や寡婦を助けたという。
耶律喜隠 〜982
遼の皇族、耶律李胡の子、趙王。体格も優れ騎射を得意とした。960年、反乱を計画して失敗。父の李胡が獄中で死去し喜隠は翌年許される。その後すぐに再び反乱して獄に下る。969年、景宗の即位で大赦があると聞き、自らくびきを外して参内し、怒った景宗から獄に戻される。その後また許され、睿智蕭皇后の姉を妻に迎え宋王となる。軽はずみで決まった心がなく、少し順境にあると調子に乗っておごり高ぶった。帝が召し出しても行かないことが時々あり、帝の怒りを買って鞭打たれ、この恨みのために反乱を計画する。980年、唆されて反乱を起こし、土牢に幽閉される。翌年、北宋の降兵に子の耶律留礼寿と共に捕えられ、反乱の旗印とされて死を賜る。
耶律罨撒葛 934〜972
遼の穆宗の弟。太平王。皇兄の統治に不満を抱き、反逆を企て、追放された。遼景宗が即位し、斉王に冊封された。39歳で病没。皇太叔を追贈された。
耶律璟(穆宗) 931〜969
遼の4代皇帝。従兄・世宗が暗殺され、即位。残忍で拷問を好んだと言われる。政治を顧みず贅沢に走り、側近に暗殺された。
韓匡嗣 918〜982
遼の政治家。医術を得意とし、述律皇后に我が子のように可愛がられた。960年、耶律喜隠の反乱では喜隠についたが、罪に問われなかった。景宗が即位すると南京留守に任じられ、979年に宋との戦いで耶律虎古や耶律休哥の意見を聞かず大敗し、景宗は韓匡嗣を処刑しようとしたが、睿智蕭皇后のとりなしで杖罰のみとなった。
女里 〜978
遼の近臣。穆宗が殺害された時、明扆のもとに駆けつけて擁立に携わり、太尉となる。978年、ある件で取り調べを受けた際に蕭思温の殺害計画の密書が発見され、死を賜った。
蕭思温 〜970
遼の宰相。経書と史書に通じていたが将軍としての才はなかった。穆宗の暴虐を諫めようとしなかった。穆宗が暗殺された際に、高勲や女里らと共に景宗を擁立する。景宗は蕭思温の娘を皇后とする。蕭思温は景宗に随行した狩猟の際に、蕭海只や蕭海里らによって殺される。
耶律屋質 915〜973
遼の大臣、将軍。大宗が崩御した際に述律太后・李胡と世宗が対峙し、屋質はこれを仲裁して世宗を即位させた。その後、世宗が暗殺された際にも首謀者を討伐し、穆宗を擁立した。
耶律李胡 911〜960
耶律阿保機の三男、述律皇后の子。930年、寰州での戦功で皇太弟となり、兄・大宗の後継者とされるが946年、世宗が群臣らにより皇帝に擁立される。母・述律太后は李胡を擁立して対抗するが、耶律屋質が述律太后に宗室内での対立の不毛さを説き、李胡らは降伏。中央への出入りを禁じられる。子の耶律喜隠が反乱を起こした際に連座して処刑される。
甄皇后 907〜951
遼の世宗の皇后、耶律只没の母。後唐の宮人であったが、世宗は南征した際に彼女を得る。寵愛が深く、世宗の即位に伴い皇后に立てられる。宮廷の統制も公平に行い、軍事や国事にも見識があった。祥古山で世宗が暗殺された際、共に殺される。
耶律阮(世宗) 919〜951
遼の3代皇帝。太祖耶律阿保機の嫡孫。叔父・大宗の崩御後、太宗の弟の李胡を皇帝に擁立しようとした述律太后と潢河で戦い、勝利して即位する。即位後は耶律屋質を用いて部族連合から中央集権体制への改革を推し進め、遼の発展の基礎を築く。晩年は奸臣を用いて政治が乱れ、祥古山で耶律察割に暗殺される。
光緒帝(愛新覚羅載湉) 1871~1908
第11代皇帝。道光帝の孫で西太后の甥。従兄の同治帝が早逝し、西太后により擁立されて3歳で即位。当初は東太后より教えを受け、伯父の奕訢も政権を担うが東太后は急死、奕訢は失脚。政権は西太后に握られる。16歳で朝政を開始、18歳で親政を始めるが実権は西太后にあった。光緒帝は翁同龢・李鴻藻らを抜擢して1898年に戊戌の変法を行うが、西太后の寵臣・栄禄に迫られた袁世凱が寝返り、西太后のクーデターにより光緒帝は幽閉された(戊戌の政変)。義和団の乱に際して光緒帝はアメリカ大統領に国書を送るなどの平和工作を行ったが、西太后に阻止された。1900年に八カ国連合軍が北京に迫ると西太后に連行されて西安へ移った。寵妃である珍妃は西太后の命令で井戸に沈められたという。1908年に崩御。死因は近年の鑑定で砒素中毒と判定。真相は不明だが、西太后の了承なく毒殺を行う事は難しいと言われる。
愛新覚羅載漪 1856~1922
道光帝の孫、西太后の甥。38歳で端郡王となる。次男の溥儁が1899年に西太后に擁立され即位するが、各方面から反対が起こり、西太后は溥儁の擁立と光緒帝の廃位を断念する。義和団の乱において載漪は義和団を利用する事を主張した。外国の連合軍が北京に迫ると西太后と西安へ逃亡。義和団鎮圧後に連合軍から死刑を求刑されるが、王族のため追放処分となる。友人や西太后の援助がありモンゴルで裕福に暮らすが、有力者と不仲になり、中華民国建国後は甘州で長男・溥僎の元で暮らす。1920年、溥僎が逝去すると北京へ行き、1922年に逝去。
西太后(葉赫那拉氏)1835~1908
咸豊帝の側室、同治帝の母。清末期の権力者。中堅官僚の家に生まれ幼名は蘭児。18歳で後宮に入り蘭貴人となる。1856年、咸豊帝の長男・載淳を産み懿貴妃に昇進。咸豊帝は1861年に崩御。8人の大臣が咸豊帝から載淳の補佐を託されるが、懿貴妃エホナラ氏(蘭児)は辛酉政変にて恭親王奕訢・咸豊帝の皇后ニオフル氏らと共にクーデターを起こし、敵対する大臣らを除く。載淳は即位し同治帝となる。ニオフル氏は東の宮に住み東太后、エホナラ氏は西の宮に住み西太后と呼ばれる。東太后と西太后が垂簾聴政を行い恭親王奕訢が補佐したが、実質的には西太后と恭親王の二頭政治だった。同治帝は1874年に親政を行おうとしたが翌年、19歳で崩御。死因は天然痘、梅毒などの説がある。皇后は西太后とそりが合わず幽閉され殺された。西太后は咸豊帝の弟と自分の妹の子である載湉を即位させる(光緒帝)。1875年に天候不順により丁戌奇荒と呼ばれる大飢饉が発生、1000万以上の餓死者が出たが、西太后は何の救済も行わなかった。1881年、東太后が45歳で突然、薨去。死因は病死と発表されるが謎が多い。1884年に恭親王奕訢は失脚。1887年に光緒帝は親政を始めるが西太后は後見を続け、自分の姪を皇后に推挙する。1895年に清朝は日清戦争に敗北。西太后が頤和園の再建や祭典で莫大な浪費を行い、軍隊の予算を削った事が主な敗因と言われる。光緒帝は1898年、戊戌の変法により立憲君主制による近代化革命を起こすが同年、西太后のクーデター(戊戌の政変)により強制的に終了。西太后は光緒帝を幽閉、端郡王載漪らを擁立し光緒帝廃位を図るが、諸外国の反対により廃位は行えず。1900年には外国の勢力への不満を募らせた民衆による義和団の乱(排外主義の運動)が発生。西太后は諸外国へ宣戦布告するが、外国の連合軍が北京に迫ると西安へ逃亡。その後、1902年に北京に帰り光緒帝の改革を一部認める光緒新政を行う。光緒帝は1908年に崩御し翌日に西太后も72歳で逝去。直前に溥儀を宣統帝として擁立していた。
俗説が多く、ライバルの麗妃の手足を切断した、葉赫那拉の呪いで皇后になれなかった、貧しい家に生まれたなどの説があるが事実でなく、イギリスの特殊工作員が辛亥革命を進めるために意図的に流布したと考えられる。
永琪(愛新覚羅 永琪) 1741~1766
乾隆帝の第五皇子。母は愉貴妃珂里葉特(ケリエテ)氏。幼い頃から勉強家で、語学のほか天文学や地理、暦にも精通。1764年、円明園の火事では乾隆帝を背負って避難、乾隆帝は彼を栄親王に封じる。父の期待を受ける皇子であったが骨結核にかかり、25歳で逝去。
容妃(和卓氏、ファーティマ) 1734~1788
乾隆帝の側室。ウイグル人。回部の首長ホジ・ハン と結婚し、離婚したと言われる。1759年、26歳で家族と北京に入り、和貴人となる。1768年に容妃となる。イスラム教徒であったため、専用の肉を与えられた。香妃伝説のモデルと言われる。
弘曕(愛新覚羅 弘曕) 1733~1765
雍正帝の第六皇子。母は謙妃劉氏。3歳の時に雍正帝が崩御し、乾隆帝の皇子達と一緒に育つ。その後、叔父允礼の養子となり和碩果親王を承襲。1763年に乾隆帝の怒りを買い、貝勒に降格されるが、その後、重病で危篤となった際に郡王に封じられる。
固倫和敬公主 1731~1792
乾隆帝と富察氏(後の孝賢純皇后)の娘。1747年にホルチン部の当主セブタンバリジュルに降嫁。乾隆帝から北京に屋敷を与えられ、皇室から多大な経済援助を受けながら夫婦で住んだ。夫婦仲は良く、子供も5人以上いた。
孝儀純皇后(魏氏) 1727~1775
乾隆帝の側室。宮女として後宮に入り、孝賢純皇后から教育を受ける。1745年に魏貴人となり、1748年に令妃となる。4男2女をもうけ、清高宗継皇后が廃位された後に皇貴妃となる。孝賢純皇后と仲がよく、乾隆帝は彼女の薨去後、孝賢純皇后と一緒に埋葬し「あの人は今もあなたのそばにいます」と詠んだと言われる。皇太子となった永琰の生母として皇后を追贈される。
フヘン(富察傅恒) 1722~1770
武将。乾隆帝の孝賢純皇后の弟。侍衛、内務府大臣、戸部尚書、軍機大臣、保和殿大学士を歴任。武将としても活躍したが、ビルマ征討の際に罹った病気により病没。
清高宗継皇后(烏喇那拉氏または輝発那拉氏) 1718~1766
乾隆帝の2番目の皇后。1733年、弘暦(後の乾隆帝)の側福晋となる。乾隆帝の即位により嫻妃となり、孝賢純皇后が亡くなると崇慶皇太后の意向により皇貴妃になり、やがて皇后となる。3人の子を産むが、そのうち永璂だけが成人した。1765年、乾隆帝の江南巡幸に随行した際に断髪を行い、それが皇帝と皇太后への呪詛とみなされて北京に送り返されたと言われる。その後、事実上の廃后状態となり、薨去した際も皇貴妃の格式で葬られた。息子の永璂も親王や郡王の身分を与えられなかった。
愉貴妃(珂里葉特氏または海氏) 1714~1792
乾隆帝が親王であった時に格格となる。1741年に第五皇子永琪を産み、皇太后の命で愉嬪となる。1764年に円明園の火災で息子の永琪が乾隆帝を背負って避難し、多くの財宝を乾隆帝から贈られる。
純恵皇貴妃(蘇氏) 1713~1760
乾隆帝の側室。乾隆帝が親王であった時に格格となる。1735年、永璋を産む。乾隆帝の即位後に蘇嬪、その後、純妃となる。1760年、息子や娘の結婚に際して純皇貴妃に封じられるが、直後に薨去。
淑嘉皇貴妃(金氏) 1713~1755
乾隆帝の側室。金氏は朝鮮系の一族。乾隆帝が親王であった時に格格となる。乾隆帝の即位後、貴人となり、その後1741年には嘉妃に冊封される。第八皇子永璇、第十一皇子永瑆を産んだ。1755年、病により薨去。
孝賢純皇后(富察氏) 1712~1748
乾隆帝の皇后。倹約家で宝石や玉を買わなかったと言われる。1727年に弘暦(後の乾隆帝)の嫡福晋となり、乾隆帝の即位で皇后となる。1746年に永琮を出産するが翌年に夭折。皇后は嘆き悲しみ病になり、泰山への行幸から北京へ帰る船の中で薨去する。
弘昼(愛新覚羅 弘昼) 1712~1770
雍正帝の第五皇子。純懿皇貴妃耿氏の子。気が強く怒りっぽい性格で酒好き。自分の生前葬を行うなど奇行が多かったが、兄に対して自分に皇位への野心がない事を示すためとも言われる。軍人として活躍。
慧賢皇貴妃(高氏) 1711~1745
乾隆帝の側室。1734年、弘暦の側福晋となる。乾隆帝の即位後に貴妃となり、1745年に病状が重くなった時に皇貴妃とされた。2日後に薨去。
乾隆帝(愛新覚羅弘暦) 1711~1799
第6代皇帝。雍正帝と熹貴妃ニオフル氏の子。幼い頃から聡明で祖父・康熙帝に可愛がられた。父の崩御により25歳で即位。「十全武功」と呼ばれる遠征を行い、清の版図は最大規模に広がった。康熙・雍正年間に国庫は充実しており、乾隆時代の文化は最盛期を迎えた。乾隆帝は宮廷画家たちを重宝し、「画院処」を設立。自身も多くの漢詩を作り、中国の伝統的な文物を愛し、江南へよく行幸した。チベット仏教に帰依しており、多くのチベット寺を建てた。その一方、奸臣のヘシェンを重用した事は清朝に禍根を残した。乾隆帝は1795年に永琰に譲位し太上皇帝となったが、院政を続けた為、嘉慶帝(永琰)もヘシェンに手が出せなかった。1799年、崩御した際にヘシェンは嘉慶帝から死を賜るが、没収された私財は国家歳入の十数年分だったという。
弘時(愛新覚羅 弘時)1704~1727
雍正帝の第三皇子。成長した子の中で年長だったが特別な才能は見られず、父の異母弟・胤禩と仲が良かった。1726年に父の怒りにふれた際、宗籍を剥奪されて胤禩の養子とされ、監禁された。翌年、逝去。
孝聖憲皇后(鈕祜禄氏) 1692~1777
雍正帝の側室、乾隆帝の生母。1705年、胤禛(後の雍正帝)の格格となる。胤禛が病になり看病した際に寵愛が深まり1711年、弘暦(後の乾隆帝)を出産。胤禛が即位すると熹妃となり、孝敬憲皇后の逝去後は後宮を取り仕切った。
斉妃(李氏) ~1738
雍正帝の側室。漢人。胤禛(後の雍正帝)の側福晋となり4人の子を産む。雍正帝即位の時に斉妃となる。彼女の子・弘時は皇子たちの中の最年長だったが失脚し、母の斉妃も権勢を失った。
敦粛皇貴妃(年氏) ~1725
雍正帝の側室。年羹堯の妹。1711年頃に胤禛(後の雍正帝)の側福晋となる。4人の子を産むが、いずれも夭逝。雍正帝の即位後、貴妃となる。1725年、皇貴妃となるが、同年に病没する。
胤礼(愛新覚羅允礼) 1697~1738
康熙帝の第17子。純裕勤妃の子。「九子奪嫡」の際は幼少であった為、難を逃れる。四兄・胤禛の即位後、允礼と改める。十六兄と共に雍正帝・乾隆帝に重用される。書画に長け、多くの作品を残す。虚弱体質であった為、雍正帝・乾隆帝に自宅勤務を許された。実子が夭逝し、雍正帝の六子・弘曕を養子としている。
純懿皇貴妃(耿氏) 1689~1785
雍正帝の側室。貝勒だった雍正帝の格格となり、四男の弘昼を産む。雍正帝が即位し、1730年には裕妃となる。乾隆帝の時代には皇考裕貴太妃となり、96歳で逝去。
孝敬憲皇后(烏拉那拉氏) 1681~1731
雍正帝の皇后。満洲正黄旗の出身。1691年に胤禛(後の雍正帝)の嫡福晋(正室)となる。男子を産むが早逝。胤禛の即位で皇后となる。
年羹堯 1679~1726
康熙帝・雍正帝に仕えた漢人官僚・大将軍。ジュンガル部や青海ホショト部を撃攘し、清朝の版図拡大に貢献した。雍正帝の年貴妃を妹に持ち権勢を誇ったが、傲慢な態度が周囲の反感を買い、1725年に「朝乾夕惕」と書くべき文書に揶揄ともとれる「夕陽朝乾」と書いたのをきっかけに降格し続け、翌年自殺した。
雍正帝(愛新覚羅胤禛) 1678~1735
清の5代皇帝。康熙帝とウヤ氏の子。康熙帝は皇后の子・胤礽を皇太子としたが、胤礽は派閥争いの中で孤立して自暴自棄となり、康熙帝の暗殺未遂容疑もあり廃された。その後、康熙帝は皇太子を置かなかったが、1722年の崩御後にロンコドが受けた遺詔により胤禛が45歳で即位した。国内財政は康熙帝時代の戦乱で逼迫していたが、雍正帝は財政を引き締め、経済的基礎を築きなおした。自身の出自が良くなかった為、見所のある下五旗の者を上三旗に異動し、上三旗の掌握に腐心した。帝位を脅かす者であれば康熙帝の諸皇子や功臣であっても容赦せず粛清を行い、ロンコドも誅殺した。年羹堯の秘書・汪景祺やロンコド派の査嗣庭、清朝を批判した呂留良も処刑した。1735年、崩御。呂留良の娘に暗殺されたという伝説がある。雍正帝は睡眠時間4時間ほどで仕事に没頭し続けた生活であった為、過労死とも考えられる。不老長寿を願い服用した仙丹の中毒死との説も有力。皇太子は立てず、扁額の裏に隠した勅書で後継者を指名した。
張廷玉 1672~1755
康熙帝・雍正帝・乾隆帝に仕えた政治家。皇帝の秘書として上奏や軍規の制度の改善で貢献する。よけいな事を言わず着実に任務を行い、雍正帝に評価される。
孝恭仁皇后(烏雅氏) 1660~1723
康熙帝の側室、雍正帝の母。家奴で下級旗人であるボーイ・ニル (包衣) の出身。胤禛(後の雍正帝)などを産み、徳妃となる。康熙帝の後継者を争う「九子奪嫡」では彼女の子らも争う。ウヤ(烏雅)氏は年少の息子・胤禵の即位を願っていたが、年長の胤禛が即位した。ウヤ氏は自殺をほのめかし、雍正帝から皇太后に立てられるのを一度拒否したという
ロンコド(隆科多) ~1728
清の重臣。康熙帝の母方の甥で康熙帝の皇后の弟。康熙帝の四男・胤禛との関わりが深く、胤禛から「叔父」と呼ばれた。康熙帝の病没後、ロンコドが「伝位于四子」との遺詔を発表し、胤禛は雍正帝となる。その後権勢を誇るが、1727年、無期懲役となり、翌年謀殺される。
景泰帝(朱祁鈺) 1428~1457
宣徳帝の次男。土木の変で兄・英宗が捕虜となると皇太后孫氏の命により監国となり、次いで皇帝に即位。土木の変の原因となった王振の一族を粛清、于謙を登用してオイラトの包囲から北京を防衛。英宗の送還後は太上皇の尊号を与えつつ権力は剥奪、英宗の息子を太子にして懐柔。しかしその後、自分の息子の朱見済を立太子した。この時、反対派の朝臣に賄賂を贈って嘲笑された。朱見済は翌年、薨去。1457年に病臥し、石亨らの奪門の変により英宗が復位。景泰帝は間もなく崩御するが、暗殺されたとも言われる。
英宗(朱祁鎮) 1427~1464
宣徳帝の長男。父の崩御により10歳で即位。治世初期は太皇太后・張氏や楊士奇ら有能な官僚の補佐により政権が安定したが、成人した頃には彼らがいなくなり、家庭教師であった宦官の王振の専横を許す事となる。1499年、朝廷内の反対を押し切りエセン征伐に親征。従軍経験の無い大量の文官や権貴子弟を含めた軍で北進。王振の私物を積んだ輸送車を待つ為に、入城を急がずに防壁も井戸も無い土木堡で野営した。オイラト軍に包囲され、英宗は捕虜となる(土木の変)。その間、皇弟の朱祁鈺が即位、翌年には講和が成立し明に送還されて太上皇となる。政治的影響力を失い、事実上の軟禁状態に置かれていたが、景泰帝が病臥した際に石亨らの政変(奪門の変)により復位。于謙を処刑した。
エセン・ハーン(エセン・タイシ) 1407~1454
オイラトの族長。マフムードの孫。明へは朝貢使節を盛んに派遣した。朝貢貿易は明にとっては多額の恩賞を必要とし、経済的に負担であった為、1448年の入朝の際、恩賞の額を下げ、明の皇女の降嫁も拒否した。エセンはこれに怒り、トクトア・ブハ・ハーンと協同し明へ進行。明の正統帝は親征するが、大敗し、捕虜となる。エセンは正統帝の身代金を明に要求したが、于謙は支払いを拒絶。正統帝の弟の朱祁鈺を即位させる。オイラトの経済は明との朝貢貿易で支えられており、また長期戦の準備もしていなかった為、エセンは正統帝を殺害する事はできず、翌年に無条件で送還する。この問題がきっかけでトクトア・ブハと紛争が起こり、攻め込まれるが、逆襲し自らハーンに即位する。チンギスの男系子孫でないハーンの即位はモンゴルの人々の反感を呼び、エセンはオイラト内部の反乱により殺される。
于謙 1398~1457
政治家。宣徳帝の元、朱高煦の乱の鎮圧に従軍した。1446年、英宗の庇護を受け専横を揮っていた宦官の王振に反抗し投獄されたが、周囲の嘆願で釈放された。1449年、オイラト部のエセンが明に進行した際、于謙らは反対したが王振の意見で英宗が親征。結果、多くの兵が戦死し英宗は捕虜となる(土木の変)。北京は大混乱となった為、于謙は皇太后孫氏の了承を得て英宗の弟の郕王朱祁鈺を即位させる。1450年に状況が変わりエセンは無条件で英宗を送還するが、英宗は宮中に軟禁され景泰帝・朱祁鈺が在位、于謙の指導で軍制改革を行った。1457年、景泰帝が病臥すると石亨らにより英宗が復位(奪門の変)。于謙は誣告され反逆罪で処刑される。
胡善祥 1402~1443
宣徳帝の最初の皇后。永楽帝の意向で皇太孫・朱瞻基の妃となる。朱瞻基が即位すると皇后となる。1428年、孫氏が朱祁鎮を産むと、病の上に男子がないという理由で廃され、清寧宮に移され、道士にさせられる。姑の張太后は胡善祥を憐れんで自身の居所へよく招いた。
孫皇后 1399~1462
宣徳帝の皇后。10代の頃に皇太子・朱高熾の邸に入り、朱瞻基と恋仲になる。1417年、永楽帝の意向で胡善祥が朱瞻基の正室となり、孫氏は側室となるが、朱瞻基は孫氏だけを寵愛した。即位し宣徳帝となった朱瞻基は1428年、胡善祥を廃して孫氏を皇后とした。孫氏の父・孫愚は会昌伯に封じられた。1435年、息子・朱祁鎮の即位で皇太后となる。朱祁鎮・英宗がオイラトの捕虜となると景泰帝を擁立。その後、景泰帝が病臥した際に英宗を復位させる。
宣徳帝(朱瞻基) 1399~1435
洪熙帝・朱高熾の長男。祖父・永楽帝の親征にも随行して助言を行った。1425年に即位。叔父・朱高煦が反乱を起こすが、これを鎮圧。宣徳帝の治世は仁宣の治と呼ばれ、明の全盛期とされる。一方、宦官権力を強化させた点は、朝政の混乱の元となり禍根を残した。芸術方面の才能もあり、文人画を得意とした。
朱高燧 1383~1431
永楽帝の三男。長兄・朱高熾とは不仲で次兄・高煦と気が合ったので、長兄を度々父に讒言した。家臣の反乱で父に処刑されそうになり、長兄が弁護して許されたので長兄と仲直りした。甥・宣徳帝の即位後、次兄のクーデターに連座して捕えられるが、証拠不十分で無罪となる。
朱高煦 1380~1426
永楽帝の次男。長身の巨漢。靖難の変では大将として活躍。諸将から朱高煦を太子にしてはとの声もあったが、朱高煦は短気で粗暴な性格であり、永楽帝は朱高熾の子・朱瞻基の素質を認めていた為、立太子は見送られた。父・兄の崩御後、甥の朱瞻基が即位。帝位簒奪を図るが失敗し、捕えられる。宣徳帝・朱瞻基は助命を考慮したが朱高煦は無罪を主張し宣徳帝に切りつけた為、死刑となり銅釜に閉じ込められ焼き殺された。
誠孝皇后(張氏) 1379~1442
洪熙帝・朱高熾の皇后。永楽帝も張氏の事は気に入っていた。賢后として名高い。
洪熙帝(朱高熾) 1378~1425
永楽帝の長男。病弱で極端な肥満体型だった。父の即位で皇太子となる。弟の朱高煦が帝位を狙っており、父もそれを検討したが、朱高熾の息子・朱贍基が英明であった為、廃位されなかった。1424年、即位。それから一年で崩御。治世は短かったが、靖難の変で奴隷や官妓とされていた建文帝臣下の家族たちを赦免し、宮刑を禁止。恐怖政治を緩和して民たちを休養させる仁政を行っていたと言われる。
建文帝(朱允炆) 1377~1402?
明の初代皇帝・洪武帝(朱元璋)の孫。長男である父の逝去で皇太孫となり、1398年に祖父の崩御により即位。側近の意見で燕王朱棣ら親王の粛清を図るが、朱棣は君側の奸を殺して朝廷を靖めると称し、挙兵。南京の官軍は兵力では優っていたが有能な将軍がおらず、1402年には南京陥落。建文帝は行方知れずになる。城に火を放ち焼死したとも僧侶になって逃れたとも言われる。
鄭和 1371~1434
元の名は馬三保。イスラム教徒の家に生まれる。10歳の時に父を殺され、去勢されて12歳の時に燕王朱棣(後の永楽帝)に献上される。靖難の変の際に功績をあげ、1404年には鄭姓を下賜され、鄭和と名乗る。1405年以降、永楽帝の元でジャワやスマトラ、セイロン、マラッカ、アフリカなどへ大航海の指揮をとる。
永楽帝(朱棣) 1360~1424
明の初代皇帝・洪武帝(朱元璋)の第四子。若い頃から北伐で戦功を揚げ、洪武帝は長男の朱標が逝去した際に朱棣を皇太子に検討するが、群臣の意見により朱標の次男・朱允炆を皇太孫とする。洪武帝は朱允炆が皇帝としては優しすぎる事が心配で功臣たちを粛清する。朱允炆は即位後、黄子澄らの意見で諸王を排除。進退窮まった朱棣は1399年に挙兵(靖難の役)。南京の政府を破り群臣の勧めで即位、永楽帝となる。即位後、黄子澄らの九族に加え、友人・門生まで処刑した。帝位の簒奪を糊塗する為に建文帝の存在を史書から除く。北方の諸王の兵権を奪ったが、それにより北方の守りが疎かになるのを懸念し、北京に遷都。南京には長子朱高熾を監国として置く。倭寇問題で対立していた日本とは和解し、足利義満を日本国王として朝貢貿易を認める。南海へは鄭和を派遣。内政では世間の本をまとめた「永楽大典」を編纂・出版させる。モンゴルへの1度目の親征は成功。モンゴルが弱まるとオイラートが明に反抗をはじめ、オイラートへ親征。最終的には5回目の親征途中で病により崩御。
マフムード ~1416
オイラト部の族長。永楽帝は1403年マフムードに使者を送り、1409年に順寧王とした。1412年に北元のオルジェイ・テムルを殺害、明にテムルの玉璽の献上と引き換えにアルクタイの討伐、明の庇護下にある元の王子の引き渡し、多額の褒賞を要求するが、明は拒否。マフムードは明の使者を拘留し、明へ侵入しようとする。これに怒り親征した永楽帝の鉄騎兵に敗れ、10人以上の息子と数千の部衆を失う。翌年、明の使者を返還する。
方孝孺 1357~1402
儒学者・政治家。1398年に建文帝が即位すると国政に参加。官制改革に取り組む。靖難の役の際、道衍(姚広孝)は永楽帝に方孝孺を殺さないよう進言したので、永楽帝は方孝孺に自分の即位の詔を書かせようとして紙を渡したが、方孝孺はそこに「燕賊簒位」と書いて激しく拒絶。永楽帝は方孝孺の目の前で肉親九族と門弟たちを皆殺しにする。
姚広孝 1335~1418
医者の家に生まれた。14歳で出家。密教を学ぶ。臨済宗に帰依し「独庵道衍禅師」と呼ばれた。道士から陰陽術と占術も学ぶ。洪武帝が馬皇后の冥福を祈るために高僧を招いた際に朱棣(後の永楽帝)と会い、彼の軍師となる。靖難の変では智謀により朱棣を支え、即位させる。永楽帝から功臣として「広孝」の名を賜り、「永楽大典」などの編纂にも従事する。一方、帝位簒奪に携わったとして、故郷では家族や友人から面会を拒まれる。
睿宗(李旦) 662~716
高宗と武則天の末子。684年、兄・中宗の廃位により即位するが、母が実権を握った。690年、母が皇帝に即位し、睿宗は廃位。その後、クーデターにより復位した兄は韋后に殺される。710年、三男の李隆基(後の玄宗)と共に韋后一派を排除。再び帝位につくが、712年、玄宗に譲位する。
中宗(李顕) 656~710
高宗と武則天の三男。高宗の崩御後すぐ即位。母に対抗するために岳父である韋玄貞を用いて親政を行おうとするが、母の逆鱗に触れ、廃位される。705年にクーデターにより復位。皇后やその父・韋玄貞、娘の安楽公主を朝政に参加させ、専横を招く。しまいには妻と娘に毒殺される。
李賢 655~684
高宗と武則天の次男。兄・李弘の死により皇太子となるが、武則天は賢を廃立し、謀反の疑いで庶人に落とした。その後、賢は自殺させられる。
李弘 652~675
高宗と武則天の長男。異母兄・李忠が廃位された後、皇太子となる。文武に優れ穏和な性格。蕭淑妃の産んだ異母姉妹の解放を高宗に奏上した為に母から憎まれ、殺されたと言われる。
李素節 648~690
高宗の四男。蕭淑妃の子。勉学に勤しみ高宗に愛されたが、母・蕭淑妃が武則天と争い刑死すると、左遷。666年に「忠孝論」を著し、張柬之がこれを献上すると武則天は素節を降格。690年、武承嗣が上金(高宗の三男・楊氏の子)と素節に謀反の企みありと誣告し、縊死させられる。
李下玉 ~691
高宗と蕭淑妃の長女。母が武則天と争い刑死すると、妹と共に冷宮に幽閉される。後に皇太子・李弘に発見され、権毅に降嫁した。夫・権毅は武則天へのクーデターを起こし失敗、殺される。
李忠 643~665
高宗の長男。母は劉氏。652年、皇太子となるが、武則天が皇后となると梁王に降格され、その後も左遷される。660年に庶民に落とされ、665年、黔州で死を賜った。享年22。
高陽公主(合浦公主) ~653
李世民の娘。李世民の謀臣として活躍した房玄齢の次男、房遺愛に降嫁する。房玄齢の死後、夫の兄と財産相続で揉め事を起こす。この事件により公主が僧侶・弁機と私通していた事が発覚し、太宗は弁機を腰斬の刑に処す。公主は父・太宗を恨み、崩御の際も悲しむ様子がなかった。652年、夫の房遺愛は李淵の六男・李元景を擁立しようとするが、長孫無忌に証拠を捉まれ失敗。翌年、遺愛らは斬られ、公主も自殺させられる。
王皇后 ~655
高宗・李治の廃后。美女だが堅苦しい性格。推薦され李治の妃となる。高宗の即位に伴い皇后となるが子に恵まれず、高宗の寵妃・蕭淑妃と対立する。蕭淑妃が息子の李素節を皇太子に立てる工作をし、これに対抗する為に武照を宮女として召し出した。狙い通り武照は蕭淑妃に代わり寵愛を得たが、王皇后も高宗に疎まれる事となる。655年、武照の娘を殺した嫌疑などで廃后とされ、その後蕭淑妃と共に投獄され刑死した。
徐賢妃(徐恵) 627~650
太宗・李世民の側室。幼い頃から文才があり、評判を聞いた太宗により召し出され、才人として入宮する。度重なる出兵や宮殿の造営で疲弊した民衆を案じ、太宗に諫言した。649年、太宗が崩御すると悲しみのあまり病に臥す。薬を飲まず、翌年24歳で逝去。賢妃の位を追贈される。
武則天(武照)624~705
中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。武氏は貴族の中では傍流だったが財産家で、幼い頃は父から高度な教育を受ける。父の没後は異母兄と従兄に虐げられる。637年、太宗・李世民の後宮に入り才人となる。「唐三代にして、女王昌」の予言が武照を指すのではないかと考えた太宗は武照を遠ざける。太宗が病に臥した時、皇太子・李治と看病にあたる。太宗の崩御後、武照は寺院に入るが、皇帝となった高宗・李治は寺院を訪れ、武照は懐妊する。高宗の後宮では王皇后と寵妃・蕭淑妃が対立していたが、王皇后は手駒とする為に武照を入宮させる。王皇后は蕭淑妃を失寵させる事には成功するが、自身も疎まれる。655年、王皇后と蕭淑妃は投獄され、その後、武照に殺される。武照は皇后となり垂簾政治を行う。非貴族層から狄仁傑など優れた人物を抜擢した。683年、高宗の崩御後は李顕(中宗)が即位するが、皇后・韋氏に唆された中宗の言動に激怒し、廃位して弟の李旦(睿宗)を即位させる。690年には自ら帝位につき、国号を「周」とする。仏教を重んじ、仏僧尼に貧窮孤老を救済させる。晩年は病床に臥せり、武姓の甥に譲位する事も考えたが狄仁傑に反対された。705年、宰相の張柬之が挙兵し、武則天に中宗へ譲位させた。翌年、武則天は崩御。高宗と合葬される。
張柬之 625~ 706
政治家。狄仁傑の推薦により召された。705年、武則天が病になったのに乗じ中宗を東宮に迎え、武則天に寵愛された張兄弟を斬り、武則天を退位させ中宗を復位させた。その後、武三思と対立して左遷され、死去。
李義府 614~ 666
政治家。幼少より文筆の能力に長け、太宗に重用される。高宗が即位するとすぐに武照に接近。武元爽らと共に武照を皇后とする為、水面下で画策する。武照の立后後は長孫無忌・褚遂良らを失脚させ、李勣と二分する勢力となる。宰相として人事権を握るがその後、汚職に手を染め、武后や李勣らとも対立。流罪となり3年後に死去。温厚な性格で人に対する時には笑みを絶やさず、しかし思いもよらぬ画策をめぐらすので「笑いに刀を隠す」「李猫」と呼ばれる。
房玄齢 578~648
李世民の謀臣。彼が推薦した杜如晦と共に李世民の即位を助ける。「貞観の治」の中心人物の一人。「玄武門の変」でも李建成に警戒される中、李世民と連絡をとり成功へ導く。その後は、様々な史書を監修する。晩年は病がちとなる。
魏徴 580~643
唐の政治家。祖父は北斉・北周に仕え、父は隋に仕えた。若い頃は出家して道士となった。李密、王世充に仕え、唐に降った後は徐世勣や裴矩を帰順させた。太子の李建成に仕え厚遇されるが、李建成は殺され、太宗・李世民に仕える事となる。太宗が癇癪を起こした際も恐れず諌めた。太宗は魏徴を敬い、魏徴が逝去した際は非常に悲しんだ。
長孫無忌 ~659
唐の政治家。長孫皇后の兄。凌煙閣二十四功臣の第一位。李淵の挙兵時には李世民の元で従軍。玄武門の変では房玄齢・杜如晦らと襲撃の計画を定めた。太子・李承乾の廃嫡後は李治を太子に推す。武則天の立后には反対する。武則天が皇后となった後は許敬宗らに誣告され、流罪となる。さらに謀反の罪で訴えられ、自殺する。
高宗(李治)628~683
唐の3代皇帝。太宗・李世民の九男。長孫皇后の子。李承乾の廃嫡後、長孫無忌の進言で皇太子となる。病気がちの為、即位した初期は伯父の長孫無忌が実権を握り、その後は皇后の武氏(武則天)が長孫氏を追放し、実権を持つ。高宗は武后廃立も計画するが、失敗に終わる。
李祐 ~643
李世民の五男。殷徳妃の子。斉王に封じられる。父・太宗から送り込まれた権万紀が自分の罪を朝廷に報告し続けたのでこれを殺し、挙兵したが人心は定まらず討伐され、長安に送られ自殺させられた。
李泰 620~653
李世民の四男。長孫皇后の子。魏王に封じられた。文学を愛した為、父・李世民から王府に文学館を置き学士を任用する事を許された。太子の李承乾と仲が悪く、李世民は承乾を廃嫡した後、「もし泰を太子に立てれば承乾と治が死ぬだろう」と言い、泰ではなく治を太子とした。
李恪 619~653
李世民の三男。楊妃(隋の煬帝の娘)の子。文武ともに優れ、呉王に封じられた。李承乾の廃位後、太子に望まれたが、長孫無忌の諫言により取り止められた。635年、長孫無忌により房遺愛や高陽公主の謀反事件に連座させられ、処刑された。
李承乾 618~645
李世民と長孫皇后の長男。幼い頃は聡明だったが、成長すると素行が乱れた。病のため、足が悪かった。称心という美男を寵愛していた。李世民は称心を殺した。承乾は嘆き悲しみ、参内しなくなった。突厥の真似をし、死んだふりをして突厥風の葬式をした。また、弟・李泰の暗殺を謀り、失敗して庶人に落とされ、黔州に流された。
李玄霸 599~614
唐の高祖李淵の三男。幼い頃から聡明で能弁。重さ800斤(約480kg)の金錘をふるい、180万の軍勢に一騎で戦って勝利したと言われる。16歳で逝去。
太宗(李世民) 598~649
唐の2代皇帝。李淵の次男で唐の創始者の一人。李淵が挙兵すると武将として活躍。群雄らを平定する中心的役割を果たし、長安を平定。官位も上がり、太子の長兄・李建成と対立するようになる。626年、玄武門の変にて李建成と弟の李元吉を殺害。李淵に譲位され即位する。元号を貞観とし、この時代に戦乱の傷跡が回復して国力が高まったので「貞観の治」と呼ばれる。遊牧民の突厥も支配し、天可汗の称号を受ける。649年にインドから仏教典を持ち帰った玄奘を支援し、漢訳をさせる。立太子問題には悩み、結局、大人しい九男の李治を皇太子とする。
李密 582~619
隋末に割拠した群雄の一人。遼東李氏の出身。刎頸の友である楊玄感の謀反に加わる。楊玄感が敗れて囚われた際、護送役人に金を与え隙を見て逃げる。その後、翟譲の元で献策を行う。翟譲は李密を魏公とする。やがて、李密を警戒した翟譲から排除されようとした為、翟譲を謀殺。翟譲の兵卒は徐世勣・単雄信・王伯当に統率させる。群雄や配下から帝位につくよう勧められ、李淵にも合従を求める。李淵は李密に従順を装う書を送る。煬帝の崩御後、擁立された恭帝は李密を招き、李密は隋に帰順。その後、王世充に敗れた際に唐の李淵に帰順。王世充攻めを任された時、進軍中に退却の命令を受け、それを聞かず逃亡。伏兵の奇襲により、王伯当と共に斬殺される。
羅士信 ~622
軍人。隋の張須陀の元にいたが、張須陀が李密に敗れ、李密に降る。王世充を攻めた時、突進して捕えられる。619年に王世充の元を逃れ唐に帰順。622年、劉黒闥に襲撃され、捕らえられたが屈服しなかったため殺された。
王伯当 ~619
翟譲の元、徐世勣と共に李密を推挙。翟譲が粛清された後は李密の元、単雄信・徐世勣と共に隋兵と戦う。敗れた際には李密と共に唐に帰順するが、その後李密が反乱を起こした際も同行。共に殺される。
李勣(徐世勣)594~669
唐の軍人。父と共に困窮した民を援助していた。17歳の時、翟譲の反乱に参加。李密が翟譲の元に来ると、李密を推挙。李密の元、穀物倉を襲撃して民に分け与え、また兵が集まる。李密が唐に帰順した際、李密の所有だった土地を献上する事を潔しとせず、李淵は徐世勣の本心を知ると感銘し、重用した。李密が唐に背いて殺された際は、李淵に許しを得て遺体を埋葬した。619年、正式に唐に帰順した際に国姓の李を授けられ、李世民の軍の中核となる。太宗・李世民は晩年に皇太子への李勣の忠誠心について不安になり、わざと李勣を左遷し、李治が即位後すぐに李勣を呼び戻す事により恩を売らせた。李治・高宗は武則天を立后する際、群臣の反対の中、李勣に助けを求めた。李勣は「これは陛下の家事です」と答え、武照は皇后となった。
単雄信 581~621
616年、隋に反乱を起こした翟譲の軍に徐世勣と共に参加。長槍を用いるのが得意で「飛将」と呼ばれる。翌年、李密から左武候大将軍に任ぜられる。李密が大敗すると王世充に降る。621年、李世民の唐軍を迎撃し、勇戦するが捕えられ、斬首される。
程知節(程咬金)589~665
唐の軍人。凌煙閣二十四功臣の一人。李密に仕えるが、李密が敗れると王世充に捕えられる。王世充を嫌い、秦叔宝と共に唐に帰順。王世充・竇建徳・宋金剛らの討伐で活躍する。
秦叔宝 ~638
唐の軍人。凌煙閣二十四功臣の一人。初めは隋に仕え、李密の討伐に参加するが裴仁基に従い李密に投降。李密が敗れると王世充に降るが、性格が合わず、唐に帰順し李世民の幕下となる。王世充・竇建徳・劉黒闥らの討伐で活躍する。
宇文化及 ~619
隋の政治家。煬帝に仕えて寵愛され、賄賂を受けて罷免されてもすぐ復職した。618年に反乱の盟主となり煬帝を弑殺、煬帝の甥の楊浩を皇帝にする。自らは丞相となり長安へ向かうが李密に阻まれ入れず。魏県に入り、楊浩を毒殺して許国を建て皇帝となる。翌年、竇建徳に捕えられ、斬首される。
李淵 566~635
唐の初代皇帝。出自である隴西李氏は北周の八柱国の家系。隋の文帝、煬帝にも仕えたが、617年に次男・李世民らの勧めで挙兵。長安を陥落させ、煬帝の退位を宣言して煬帝の孫・楊侑を帝位につける(恭帝)。翌年、煬帝の死を知ると恭帝から禅譲を受け帝位につく。626年、長男・李建成と四男・李元吉が次男・李世民の殺害を謀り、逆に殺される(玄武門の変)。李淵はこれを受けて李世民に譲位。その後は隠居して静かに暮らす。71歳で崩御。
宣華夫人陳氏 577~605
陳の公主。美しく聡明。陳滅亡後、隋の後宮で嬪となる。晋王楊広は太子の座を狙い陳氏に金品を贈り、陳氏は楊勇の廃立に協力する。陳氏は独孤皇后の崩御後、文帝の寵愛を独占。文帝が崩御し煬帝が即位した後は、また後宮に入れられた。
煬愍蕭皇后 567~647
隋の煬帝の皇后。後梁の明帝蕭巋の娘。貧しい叔父の家で育ち、苦労する。楊堅が楊広の妃を後梁の公主たちから占いで選び、選出される。彼女は学問を好み、占いにも詳しかった。楊広と共通の趣味も多く、楊広の遊幸にいつも付き添った。失政がひどくなると、「述志賦」を作って諫めた。楊広の崩御後は竇建徳により突厥に送られた。630年、突厥が唐に敗れた時に長安に戻った。81歳で逝去。太宗・李世民により楊広と合葬される。
煬帝(楊広) 569~618
隋の2代皇帝。暴君として有名。楊堅と独孤伽羅の次男。13歳の時、隋の建国と同時に晋王となる。588年の陳征伐では総司令官となり、陳を滅ぼす。兄・楊勇から皇太子の座を奪う為、両親の前では質素な暮らしを装い、正妻の蕭氏以外の女性を置かないふりをしたが、実際は他の女性に出来た子は処理されており、豪華な生活をしていた。文帝・楊堅は600年に楊勇を廃して楊広を立太子する。602年に母、604年に父が崩御。帝位を継ぐ。楊堅は「文帝本紀」では病死、「后妃伝」では文帝の寵妃・陳氏に関係を迫り廃嫡されそうになった楊広が弑逆したとされる。即位した煬帝(楊広)は兄・楊勇を殺し、他の兄弟も殺したり死ぬまで幽閉したりした。長城などの大規模な土木工事を多数行い、南の江南から北の洛陽・長安を繋ぐ大運河を開削した。大工事で人民が疲弊した事が隋の滅亡につながる。遣隋使の国書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」に腹を立てたと言われる。高句麗への遠征は多くの兵を失ったが領土を得られず、失敗に終わった。楊玄感・李密の反乱をきっかけに隋の全土で群雄割拠し、華北は李密・竇建徳・王世充などが相争った。李淵は唐を建てた。煬帝は酒食にふけり、618年に宇文化及らのクーデターで縊死させられた。統治者としては失格だったが、隋代を代表する詩人で抒情詩を多く残す。
楊麗華 561~ 609
北周の宣帝の皇后。隋の楽平公主。楊堅と独孤伽羅の長女で煬帝の姉。性格が穏やかで嫉妬心を持たなかったので、宣帝が立后した他の皇后や妃嬪にも敬愛された。ある時、宣帝が麗華の冷静な態度に逆上して死を賜わろうとし、母の独孤伽羅が叩頭して陳謝し免れた。宣帝の崩御後、父・楊堅が幼い静帝に代わって輔政を行うと聞くと最初は喜んだが、父に簒奪の意図があると知ると不満を述べた。581年に禅譲は行われ、586年には楽平公主に封じられる。父は麗華を再婚させようとしたが、麗華は承知しなかった。609年、弟の煬帝と張掖におもむき、河西で薨去。
宣帝(宇文贇) 559~580
北周の第4代皇帝。宇文邕の長男。皇太子としての資質に問題あり、父から杖で殴打されるなどした。色好みで、遊興にふけるために在位1年で7歳の長男に譲位し、政治を岳父である楊堅にまかせた。22歳で薨去。
文皇帝(楊堅) 541~604
隋の初代皇帝。楊忠の子。10代から将軍として活躍。父の死後、隋国公の爵位を嗣ぐ。北斉との戦いでも戦果を挙げる。578年、長女の楊麗華を宣帝の皇后とし、自身は上柱国・大司馬となる。580年、宣帝の崩御後は左大丞相として実権を掌握。翌年、静帝から禅譲させ皇帝に即位。隋朝を開く。宇文一族を多数殺す。長安に都を置き、後梁と陳を滅ぼし中国を統一する。内政では中央官制を整え、郡を廃して州・県を設置。官僚の登用においては科挙制度を設けた。貨幣を統一し、中央集権体制を磐石なものとした。仏教の興隆にも尽力し、仏教治国策と称せられた。性格は疑り深かったが、その治世は唐王朝からも評価される。600年に倭王多利思北孤の使者に謁見したのが初回の遣隋使と言われる。楊堅の崩御については、「文帝本紀」では病死とされ、「后妃伝」では楊広に弑逆されたとされる。
楊忠 507~ 568
文帝・楊堅の父。軍人。西魏では独孤信の下で南朝梁と戦う。途中、梁に亡命した事もあったが、また西魏に帰還して戦果を挙げる。北周の孝閔帝の元では北斉を攻め、柱国大将軍、随国公に封ぜられる。武帝から太傅に任じられるが、宇文護により朝廷から遠ざけられる。568年、病没。
文献皇后(独孤伽羅) 544~602
独孤信の七女。隋の文帝楊堅の皇后。14歳で楊堅に嫁ぐ。580年に北周の宣帝が崩御した際、楊堅に「獣に乗っているときは、下りることはできません」と伝えた。翌年、楊堅は帝位につき、伽羅は皇后となる。古今の知識に通じ、生活は倹約を重んじた。値八百万の明珠を皇后に献上するために突厥と交易したいという申し出があった際、八百万あるなら功労のある将士に分け与えてねぎらうべきと言った。皇后の従兄弟が法を犯した際、楊堅は皇后に遠慮して減刑しようとしたが、皇后はそれを拒み法の通り処断させた。情愛が深い一方、嫉妬深さでも知られ、楊堅が他の女を後宮に迎える事を許さなかった。しかし陳の後主の妹・宣華夫人など悲運な女性の場合は容認している。尉遅迥の孫娘は楊堅に寵愛された為、皇后に殺された。皇太子の楊勇は色好みであったので、太子妃が突然死した際に皇后は太子の愛妾の仕業と思い込み、楊勇を廃嫡して次男の楊広を立太子させた。
元貞独孤皇后
独孤信の四女。隴西郡公李昞の妻。唐の高祖李淵の母。年老いて病になった際、気難しい性格のため、李家の夫人たちが近寄らなかった。李淵の妻・竇夫人だけが介護を行った。618年に李淵が唐を建てた際に皇后として追尊される。
明敬独孤皇后 ~558
明帝・宇文毓の后。独孤信の長女。558年1月に王后となり、4月に薨去。翌年、皇后を追贈。明帝が崩御すると合葬される。
武帝(宇文邕) 543~578
北周3代皇帝。宇文泰の四男。冷静沈着な性格で、即位当初は暗愚を装い、政治への関与を避ける。572年に宇文護を誅殺、親政開始。574年には財政改善を狙い仏教と道教を廃止して寺院の財産を没収する。577年には北斉を滅ぼし華北を統一。578年、病没。
明帝 (宇文毓)534~560
宇文泰の庶長子。異母弟・宇文覚が即位した際、柱国となり善政を行う。宇文護は宇文覚を廃位した後、宇文毓を新皇帝に迎えようとしたが、宇文毓は固辞。群臣たちの重ねての要請で即位を承諾。557年即位し、弟の宇文邕を柱国・宇文護を太師・独孤氏を王后とする。陳軍が侵攻した際は自ら甲冑をつけて戦った。周暦も作り、豪雨の際は庶民でも上奏文を挙げることができるようにした。宇文護が毒入りの餅を勧めた時に悟ったがあえて食べ、弟の宇文邕を後継にするよう遺言し、崩御。
宇文護 513~ 572
北周の実質的な創始者・宇文泰の兄の子。叔父の死後、後を継いで宇文覚を補佐する事となるが、専横がみられ、何度も宇文護殺害計画が練られる。557年に孝閔帝を退位させ、明帝を立てる。560年、鋭敏な明帝を警戒して毒殺。武帝を立てる。572年、武帝から酒好きな太后を諌めるよう頼まれるが、これは罠で、隙ができた時に武帝から背中を笏で突き刺され殺される。
孝閔帝(宇文覚) 542~557
北周の初代皇帝だが、実質は従兄・宇文護の傀儡。西魏の実力者・宇文泰の三男。即位した557年の9月、宇文護殺害を計画するが、露見して廃位され、幽閉ののち殺害される。
独孤信 502 ~557
西魏の匈奴系軍人。容姿が美しく、騎射を得意とした。服装も華やかで、軍中で独孤郎と呼ばれた。孝武帝と長安へ移り、様々な武功をあげるが、政治の実権は宇文泰が握っていた。557年、宇文覚が西魏の恭帝から禅譲を受け北周を建てた時、宇文護の殺害を計画するが露見して自殺させられる。
司馬昭 211~265
司馬懿の次男。西晋の文帝司馬炎の父。高平陵の変にも参加。兄と共に活躍。260年、皇帝・曹髦は司馬昭を排斥するため挙兵し、成済に殺される。司馬昭は蜀漢攻めで劉禅を降伏させる。庶子の司馬攸を兄の猶子とし、後を継がせようとしたが、周囲の勧めで嫡子の司馬炎を世子とした。
司馬師 208~255
司馬懿の長男。高平陵の変では速やかに宮城を制圧。父に評価される。大将軍に任ぜられ、呉の諸葛恪と戦うが大敗。諸将の責任を問わず、罪を引き受けようとしたのでかえって周囲の評価は高まる。254年、皇帝・曹芳が司馬師を排斥して夏侯玄を立てようとしたのを知り、夏侯玄らを殺して曹芳を廃位する。毌丘倹・文欽の乱を討伐した際、左目の瘤が悪化し、許昌にて死去。
何晏 196~249
何進の孫。何進が十常侍らに殺された時に母が曹操の妾となり、何晏も曹操の養子となる。才気煥発でお洒落なナルシストで、文学や思想の世界で活躍する。高平陵の変の後、司馬懿の命令で曹爽らの裁判を行った後、自身も処刑される。
曹爽 ~249
曹操の甥である曹真の子。曹叡に重用され、司馬懿と共に曹芳を託される。やがて何晏らに勧められ権力を独占しようと司馬懿を名誉職に追いやる。軍功を求め蜀漢や呉を攻めるが、大敗。249年、司馬懿のクーデター(高平陵の変)では解任を受け入れれば罪を許すと言われ降伏するが、その後謀反の疑いをかけられ、処刑される。
曹叡(明帝) ~239
魏志倭人伝で卑弥呼の使者が拝謁した皇帝。曹丕と甄氏の長男(甄氏の前夫袁煕の子という説あり)。吃音があり言葉少ないが容姿は優れ、威厳があったという。父に冷遇され、父が重病になってから太子となった。226年に即位するとすぐに母に皇后を追贈。その後、郭氏(義母郭女王とは別人)を寵愛すると恨み言を言った毛皇后に死を賜り、父と同じ事をする。曹叡は30代で病没。従弟の子・曹芳に帝位を継がせる。
文徳皇后郭氏 184~235
聡明な少女であったため「女王」というあだ名がついたが、両親を失い家が没落。召使として働く。曹操に見出され、曹丕の女中となる。やがて曹丕の妾となり、献策をして立太子に尽力。222年に曹丕は群臣の反対をおして彼女を皇后とする。姑の卞太后とは不仲。
文昭皇后甄氏 183~221
高官の娘で幼少時から聡明。袁煕の妻となるが、204年に曹操が鄴を攻めた際に曹丕に見初められ、妻とされる。姑の卞太后とは仲が良く、曹叡を産むが後に曹丕の寵愛を失い、恨み言を述べて死を賜った。正史には容姿についての記述はないが、曹植の「洛神賦」のモデルと言われ傾国の美女としての伝説が多い。曹操は鄴城攻めの折に甄氏を手に入れようとしていた、甄氏の死後に曹丕は彼女を思慕していた曹植に彼女の枕を与えた、宴席で一人だけ平伏せずに甄氏を平視した劉楨は曹操から懲役に処せられたなどと言われる。
武宣皇后卞氏 160~230
歌妓だったが、20歳で曹操の妾となる。その後、丁夫人が曹操と離縁すると後妻となる。華美を好まない倹約家で節度を重んじ、丁夫人の離縁後も時候の挨拶を欠かさず尊重した為、丁夫人からも感謝される。
張春華 189~247
司馬懿の正室。司馬師・司馬昭らの母。司馬懿が仮病を使い出仕を拒んだ時、元気な姿を見てしまった女中を殺したと言われる。
諸葛亮(諸葛孔明)181~234
蜀漢の政治家・武将。徐州生まれ。幼い頃に叔父の諸葛玄と南方へ移住。荊州で弟の諸葛均と晴耕雨読の生活を送る。黄承彦に不器量だが賢い娘があり、これを娶る。友人の徐庶が主君・劉備に諸葛亮の事を話し、劉備は諸葛亮の元へ足を運ぶ(三顧の礼)。諸葛亮は天下三分の計を説き、劉備に仕える。赤壁の戦いでは孫権に同盟をもちかけ、曹操軍に勝利する。220年に献帝が曹丕に禅譲した時、蜀漢では献帝が殺されたと言われ、劉備は漢を継ぐ事を宣言し蜀漢の皇帝となる。諸葛亮は丞相となる。関羽が呉軍に殺された時、劉備は復讐に心を奪われて戦い、最後に敗戦する。張飛も部下に殺され、失意の劉備は病が重くなり白帝城で崩御。諸葛亮に後事を託す。諸葛亮は北伐に赴き、街亭の戦いでは愛弟子の馬謖をも処刑する。五丈原では司馬懿と対峙し、戦いのさなか病没する。
司馬懿 179~251
司馬防の次男。曹操に出仕を求められた時、仮病を使い辞退したが、その後も求められ、やむなく出仕。太子・曹丕に仕える事となり、曹丕の絶大な信頼を得て「太子四友」の一人と呼ばれる。曹操逝去の際は葬儀の主宰を命じられる。大将軍に叙せられた時、負担が大きいので辞退しようとすると曹丕に「苦労を分かち合ってほしい」と言われ、引き受ける。曹丕の崩御後は曹叡の補佐を託される。五丈原では諸葛亮と戦う。諸葛亮の病没後に退却した為、「死せる孔明生ける仲達を走らす」と言われた。公孫淵との戦いでは大虐殺を行う。曹叡が病に倒れた際は曹爽と共に曹芳の補佐を託される。曹爽の画策により、司馬懿は名誉職の太傅に転任。曹爽は最初は司馬懿を尊重したが、後に専横が目立つようになる。司馬懿を警戒して李勝に探らせるが、司馬懿は耄碌したふりをして曹爽を安心させる。249年、曹爽が洛陽を留守にした際にクーデター(高平陵の変)を起こす。郭太后に上奏して曹爽らの任を解かせ、司馬師・司馬孚に宮城を制圧させ、自身は洛水の岸辺で曹爽らに「免官するだけ」と説得して降伏させるが後から曹爽一族・腹心の何晏・桓範らを処刑する。王淩の乱も察知して王淩らを自殺させる。その後、自身も73歳で病没する。
司馬孚 180~272
司馬防の三男。曹操に仕え、曹丕・曹植にも諫言を行った。兄・司馬懿が諸葛亮と戦った時、明帝に抜擢されて後方支援を行った。魏への忠誠心が厚く、司馬懿のクーデター後も死ぬまで魏の臣下である事を誓った。
司馬朗 171~217
司馬防の長男。洛陽で董卓にも評価されるが、董卓の破滅を予知し、郷里へ帰る。その後、曹操に仕える。崔琰から「君の才は弟に及ばない」と言われても怒らず、弟の司馬懿を高く評価していた。従軍中に疫病が蔓延し、薬を飲まずに兵士に全て与え、自身は病死した。
司馬防 149~219
温県出身の政治家。司馬懿の父。若き日の曹操を都尉に起用。董卓が長安へ遷都した際はそれに従うが、家族は帰郷させる。晩年は故郷で過ごす。曹操と鄴で会食するなどの交流は続いた。性質は質実剛健。子供らは皆、優秀で司馬八達と呼ばれた。
丁儀 ~220
弟と共に曹植に仕える。曹操の娘との縁談があったが、曹丕が反対し破談になったので曹丕を恨み、太子を廃させようとする。曹丕の即位後、処刑される。
楊修 175~219
曹操・曹植に仕えた政治家。才能豊かであったので重用されたが、後継者争いで曹植に加担。曹操から警戒され、殺される。
曹植 192~232
曹丕の弟で「詩聖」と呼ばれる名高い文学者。天才肌の奔放な貴公子。天子専用の通用門を勝手に通って父を激怒させるなど、酒の上の失敗も多い。父の逝去後は側近を殺され、各地を転々とさせられる。代表作「洛神の賦」は曹丕の妃・甄氏について詠んだと言われる。曹丕の前で詠んだ「七歩詩」は「煮豆燃萁」という故事成語にもなっている。
曹丕(文帝) 187~226
曹操の子で魏(曹魏)の初代皇帝。嫡男の異母兄・曹昂が戦死し嫡男となる。弟の曹植と激しい後継者争いをした末、217年、太子に指名される。220年、父の逝去後に魏王に即位。丞相の職も受け継ぐ。その後、献帝に譲位させて皇帝に即位。226年、病に倒れ40歳で崩御。司馬懿らに太子の曹叡を託す。
曹操 155~220
後漢末期、沛国譙県に生まれる。父・曹嵩は宦官として名高い曹騰の養子。若い頃は放蕩息子で袁紹と花嫁泥棒をした逸話がある。橋玄と何顒には高く評価され、許劭の元へ行き評価を求めると「治世の能臣・乱世の奸雄」と言われた。これをきっかけに名が売れ、出世する。 洛陽北部尉として皇帝に寵愛された宦官・蹇碩も法を犯せば打ち殺した。黄巾の乱では 皇甫嵩・朱儁の配下として活躍。反乱の糸口となる淫祠邪教を禁じた。霊帝が崩御した際、何皇后の兄が何進将軍と宦官集団・十常侍に殺され、十常侍も袁紹・袁術に殺される。檄文を受け上洛した董卓が何皇后の子・弁と協皇子を確保し、協皇子を帝位につけ傀儡とする。袁紹・袁術は逃げ、曹操も洛陽から逃げる。董卓は洛陽を焼き払い長安へ遷都。曹操は反董卓連合で活躍するが、父や弟を殺した陶謙への復讐として徐州で大虐殺を行い禍根を残す。下邳の戦いでは呂布を破り、官渡の戦いでは袁紹を破る。赤壁の戦いでは劉備・孫権連合軍と対峙し、火攻めで大損害を受けて撤退する。212年には宮中での帯刀などの特権を得る。朝廷内では曹操への不満が高まり、董承らが曹操暗殺計画を立てるが露見し殺される。父・伏完に曹操の排除を要求した伏皇后も殺された。230年病没。天下は治っていないので葬儀に時間や金をかけず、其々の職務を全うするよう遺言した。
始皇帝 BC259〜BC210
秦の31代君主。中国の初代皇帝・嬴政。趙の邯鄲で生まれ、父が秦へ帰国した後は母と二人で死と隣り合わせの生活を送る。10歳で秦へ入国、13歳で王位を継ぐ。父の代からの重臣で実父との噂もある呂不韋を仲父と呼び重用する。22歳の時、嫪毐の反乱の背景に呂不韋の関与があると知り、蟄居を命じた。3年後、未だ人との交流が多い呂不韋に流罪を命じ、呂不韋は自害する。政はその後李斯を用い、法を重視する政策をとる。「韓非子」にも感嘆し、韓非が秦へ来るよう仕向けるが、韓非は李斯に殺される。政は燕の太子丹に恨まれており、魏・趙を滅ぼした後に荊軻という刺客に襲われるが暗殺を免れ、燕を滅ぼす。その後魏・楚・斉を滅ぼし、39歳で中国を統一する。封建制に代わり郡県制を用い中央集権体制を築く。度量衡や通貨、車幅、文字の書体を統一。道路や運河を整備する。人口も増え、咸陽城が手狭となり阿房宮の建設に着手。また自身の陵墓も建設。驪山陵には宮殿や楼観、水銀の川が造られ、中には兵馬俑を配備。生前の生活を死後に再現しようとしたと考えられる。北方の遊牧民からの防衛の為、万里の長城の原型となる壁を造る。神仙に傾倒し、封禅の儀式を行った。方士たちに不老不死の術を探させた。各地を巡遊し、巡遊中に張良に暗殺されかけた事もあった。第4回巡遊中に病気になり、崩御。
李斯 〜BC208
秦の政治家。楚で生まれ、小役人をしていたがある日、便所のネズミと兵糧庫のネズミを見て居場所の大切さを痛感し、儒家の荀子の門を叩く。その後呂不韋の食客となり、推挙されて秦王政に仕える。嫪毐の反乱後に政により他国人の追放令が出た時は抗議し撤回させる。韓非が登用された時は危機感を感じ、韓非を投獄させ殺す。秦の統一後は官吏を用い統治する郡県制を説き、法家思想と対立する者には焚書坑儒を行った。始皇帝の崩御後は宦官の趙高と遺勅を偽造し暗愚な胡亥を2代皇帝につける。これは趙高に脅されて行ったとも言われる。胡亥は陳勝・呉広の乱の際も阿房宮で遊びふけり、李斯は諫言を重ねたが不興をかう。ついには三族皆殺しとなり、自身は五刑・腰斬という凄惨な死を遂げる。
嫪毐 〜BC238
呂不韋の食客から太后の偽宦官となる。太后に寵愛されて権勢をふるい2人の子を儲ける。BC239長信侯に封じられる。太后との関係を政が知る事となり、嫪毐は御璽印璽を盗んで反乱を企てる。しかし咸陽で返り討ちにあい、車裂きにされる。
帝太后(趙姫)BC280〜BC228
秦の荘襄王の后で始皇帝の母。趙の豪族の出身。呂不韋の妾だったが子楚に望まれ、子楚の妃となる。BC250秦に入国。子楚の即位で王后、政が即位すると王太后となる。偽宦官・嫪毐との間に2人の子を産んだと言われる。嫪毐の叛乱に激怒した政により子は殺される。彼女は幽閉されるが、後に許され王城へ戻る。
荘襄王(嬴異人・嬴子楚)BC281〜BC247
秦の30代君主。安国君の子。趙へ人質に出され冷遇されていたが、呂不韋に見出され、華陽夫人の養子となる。華陽夫人の祖国に因み、子楚と改名。呂不韋の元にいた趙姫との間に政が誕生しており趙に残されていたが、子楚が太子となった時に秦に送られた。子楚はBC249呂不韋を派遣して東周を滅ぼす。在位3年で薨去。始皇帝により太上皇に追尊される。
呂不韋 〜BC235
秦の政治家。商人の家に生まれ、若い頃から各国を渡り富を築く。趙で嬴異人と出会った時に「奇貨居くべし」と言い、父と相談して嬴異人への投資を決める。異人に金を渡して趙の社交界で名を売るよう指導し、自分は秦へ行き華陽夫人とその姉に異人が華陽夫人を母のように慕っていると話し、養子にするよう勧める。異人は夫人の養子となり、子楚と改名。子楚は呂不韋の寵愛する趙の豪族の娘を気に入り、譲り受ける。BC251昭襄王、孝文王が薨去し子楚が即位すると文信侯に封じられ、洛陽に10万戸の領地を持ち、相国として権勢をふるう。BC247荘襄王(子楚)が薨去し太子の政が即位すると仲父(父のような存在)の称号を授けられる。BC241函谷関の戦いでは総指揮をとる。また食客を三千人持ち、その知識を集めて「呂氏春秋」をつくる。これを市に置き、「一字でも増減できる者には千金を与える」と言う。食客の中には後に宰相となる李斯もいた。呂不韋は政の母である太后(趙姫)と自分との関係が危険であると感じ、嫪毐を偽宦官として太后の元へ送る。嫪毐は後に謀反を起こし、呂不韋はこれに連座して相国を罷免され、蟄居とされた。蟄居後も客と交流し、影響力も大きかった為、BC235政から届いた詰問状に蜀への流刑も追加され、自害した。
夏太后 〜BC240
秦の安国君の側室で嬴異人の生母。臨終の際に、墓を夫の墓と息子の墓を望む土地に指定する。
華陽太后 〜BC230
楚の公女。秦の王太后。安国君が太子となった時に正室として華陽の号を得る。呂不韋の勧めで嬴異人を養子とする。
孝文王(安国君)BC302〜BC250
秦の29代君主・嬴柱。昭襄王の子。嬴異人や子傒の父。即位後3日で薨去。
春申君 〜BC238
楚の政治家。頃襄王の命で秦へ行き、和平交渉を成功させて太子を楚へ帰らせる。
廉頗
趙の武将。戦国四大名将の一人。藺相如と「刎頸の交わり」を結ぶ。晩年は悼襄王から罷免され、大梁へ亡命。趙は廉頗を呼び戻そうとするが、奸臣・郭開の策に阻まれる。
藺相如
趙の恵文王の家臣。秦が趙の宝物「和氏の璧」と十五城の交換を申し出た時に使者として秦へ行き、璧を損なう事も国の面子を潰す事もなく戻った。これが「完璧」の語源となる。廉頗将軍と「刎頸の交わり」を結ぶ。
昭襄王 BC306〜BC251
秦の第28代君主・嬴稷。異母兄の武王が急死した時、燕から戻り即位。母や叔父たちが長く実権を握っていたが、昭襄王は范雎を登用し、旧勢力を除いた。
白起 〜BC257
昭襄王に仕えて秦の領土拡大に貢献した名将。戦国四大名将の一人。BC260長平の戦いでは大勝するが、白起と不仲だった宰相・范雎の停戦令に怒り、病と称して出仕を拒み、ついには昭襄王から死を賜る。
羋戎 BC332〜BC262
宣太后の弟で政治家。昭襄王が即位した時に宣太后の招きで秦に入り左丞相となる。函谷関の戦いでは総司令官を務める。宣太后の退位と同時に罷免。
魏冄
宣太后の異父弟で政治家。恵文王、武王に仕え、昭襄王の即位に貢献した。白起を登用し、将軍としても戦果を上げる。宣太后の退位と同時に罷免される。
宣太后 〜BC265
楚の公女で秦の恵文王の側室。 羋八子とも呼ばれる。昭襄王(稷)、高陵君(巿)、高陵君(悝)の母。始皇帝の高祖母。武王の薨去後、即位した昭襄王が若年だった為、弟の魏冄・羋戎と共に三貴と呼ばれ権勢をふるった。BC306、昭襄王即位の祝賀に来た義渠の戎王と親密になり、2人の子を生す。その後BC272、戎王を甘泉宮に呼び出して殺す。宣太后はBC265、昭襄王により退位させられた後、薨去。
恵文后 〜BC305
秦の恵文王の正室。楚の出身で魏姓。魏夫人と呼ばれた。武王の母。武王が22歳で薨去した後は継子の公子稷が即位するが、これに対する叛乱に加担し、処刑される。(武王より先に亡くなった説もあり)
蘇秦 〜BC284
洛邑出身。斉で張儀と共に鬼谷に学ぶ。秦で武王に進言するが、用いられず。燕の昭王など六国の王に進言して同盟させ、六国の宰相を兼任。縦横の術・合従を実現する。燕に仕えていたが、後に斉に渡り湣王に仕える。敵対者に暗殺され、死に際に湣王に自分の遺体を車裂きにして犯人を名乗りでさせる事を提案する。その通り犯人は自首し、処刑される。
張儀 〜BC309
魏出身の政治家。若い頃は不遇で、楚では窃盗の疑いで袋叩きにされる。その時、「舌があれば大丈夫だ」と言ったという。秦へ渡った後は恵文王の宰相として外交手腕を奮い、六国の合従を連衡で破る。恵文王が薨去した後は、武王と不仲であったため、魏に戻り宰相となった。
屈原 BC343〜BC278
楚の政治家・詩人。家柄も能力もあり懐王に重用されていたが、懐王は屈原の言葉を聞かずに秦の張儀などに騙され、しまいには秦に監禁される。楚では太子が即位し、屈原は左遷。BC278年5月5日、楚の都・郢が秦に陥落した事で絶望し、汨羅江で入水自殺。端午の節句の起源とされる。
樗里疾 〜BC300
恵文王の異母弟で秦の政治家・軍人。知恵者として有名で、武王・昭襄王にも仕えた。
恵文王(秦) BC337〜BC311
秦の26代君主・嬴駟。側近に過酷な罰を与えた商鞅を恨み、殺して死体を晒したが、商鞅の新法は用い続ける。異母弟・樗里疾や張儀、司馬錯らと共に秦の国力を増強させ、巴蜀を得る。
商鞅 BC390〜BC338
秦の政治家・将軍・兵法家。魏で宰相の食客となるが、魏王には用いられず、秦へ行き孝公に仕える。孝公の元、変法と呼ばれる国政改革を断行。戸籍を設け信賞必罰を徹底させる。最初は法の効果が上がらなかったため、法を破った太子の側近を鼻削ぎ、黥、死罪に処した。変法は成功し、秦は強国となるが、孝公の薨去後、太子・嬴駟が即位し恵文王となると処罰された側近たちが王へ商鞅の事を訴える。危機を感じ逃げた商鞅は、自らの定めた法により宿に泊まる事もできず、秦の討伐軍に討たれる。遺体は見せしめのため車裂きにされたという。
呉起 BC440〜BC381
軍人・政治家・思想家。将軍になるために妻を殺したり、兵士に命懸けで戦わせるために負傷した傷口の膿を吸い出してやったりした。能力は優れているが人格が不評で魏では宰相になれず、楚へ逃れて悼王の元、法を整備し改革を行う。不要な官職を廃止したため貴族たちの恨みを買い、悼王の薨去後に殺される。追手が来た時に悼王の遺体に覆い被さったため、呉起を射た矢は王の遺体にも刺さり、射た者は処刑された。
鬼谷
張儀や蘇秦の師と言われる伝説の思想家。呼び名は鬼谷(現在の山西省沢州府内)に住んだ事に由来する。「鬼谷子」に遊説の方法を記した。仙人であったとも言われる。
伍子胥 〜BC484
楚の重臣・伍奢の子。費無忌の讒言により平王に父と兄を殺され、呉に逃れる。公子光に仕え、刺客・専諸により呉王僚を暗殺。公子光は呉王闔閭となる。伍子胥は王に孫武の「孫子兵法」を献上し、登用を薦める。闔閭の元、孫武と共にBC506柏挙の戦いにて楚に大勝。平王の墓を暴き遺体を鞭打つ。公子夫差を闔閭の後継とするが、BC494夫椒の戦いで越を破った後、越王勾践の処遇について夫差と意見が分かれる。宰相伯嚭の讒言によりその後も夫差との関係が悪化。自害を命じられる。墓に梓の木を植えるよう言い残し自害するが、最後の言葉に激怒した夫差の命令で遺体は河に投げ込まれる。端午の節句は河に沈んだ伍子胥を鎮魂するものとする説もある。
孫武 BC535年頃
武将・軍事思想家。「孫子」の著者。斉国出身。BC517頃の内紛で呉へ逃れ伍子胥から呉王闔閭に推挙される。孫武は伍子胥と共に楚との戦いで活躍。BC496、闔閭は孫武の意見を無視して越を攻め、負傷し傷の悪化で薨去。孫武と伍子胥は後継の夫差を支え、越に大勝。しかしその後、夫差との関係は思わしくなく、以降の呉の記録に孫武の名は無い。殺されたとも隠遁したとも言われる。
田穰苴(司馬穰苴)
斉の将軍。兵法書「司馬法」の著者。景公の元で将軍となった時、景公の寵臣・荘賈が軍法を無視した時に「将、軍に在っては、君令も受けざる所有り」と言い、荘賈を処刑した。晋・燕を破り大司馬に任命されるが、その後、高氏・国子ら貴族に讒言され、解任された後病死した。
韓厥
晋の政治家・将軍。趙盾に推挙される。屠岸賈が趙朔の事を誣告した時、趙朔を弁護する。BC583年、景公が病になった折に趙武を出会わせ、趙家再興を認めさせる。
趙武 BC597〜BC541
晋の政治家。趙氏を再興させ、晋と楚を和睦させた。生後まもなく屠岸賈に命を狙われるが、父の食客・公孫杵臼と父の友人・程嬰が他の子供を身代わりにして趙武を救う。その子と杵臼は殺され、趙武は程嬰に育てられる。
荘姫
晋の景公の姉・趙朔の妻・趙武の母。「春秋左氏伝」では趙氏滅亡の原因とされる。「史記」では趙氏滅亡の原因は屠岸賈の讒言。
趙朔 〜BC598
晋の政治家。楚との邲の戦いにやむなく参加し、敗れる。韓厥に亡命を勧められるが、晋に留まる。司寇の屠岸賈が景公に、霊公暗殺の責任は趙朔の父・趙盾にあると讒言。趙朔は一族皆殺しとなる。妻の胎内にいた息子の趙武だけが難を逃れる。